【メールマガジン「恋歌」第62回】
2004.3.4



 

[ 夜見(よみ)の向こう側 ]

夜の闇の中をバスは走る
時に追い越していくトラックのライトが
通り過ぎて行く街のかすかな灯(あかり)が
ポツリ ポツリと浮かび上がる
都市化が進んだこの国で
夜がこんなにも暗かったなんて

バスの窓にずっと映っているのは
ただ白いセンターラインだけ
この長く延びるセンターラインの先に
この夜を抜けた先に待っているのは
神々の都 出雲の国
この国が生まれた朝(あした)
この国が生まれた地で
僕は何を見 聞き 感じるだろう

今ひとたびのよみがえりと
国生みの神話を求めて
出雲へと還る

 

神に呼ばれた――その人が松江で企画した催しに僕を誘った時、正直僕はそう感じた。

「一度もいらしたことないでしょう。たまには来て下さいよ、2月11日、建国記念日で祝日の日ですよ。」

建国記念の日! 松江=出雲の国! これはただ事ではないと僕は直感した。実は、何を隠そう、僕は出雲頼通などという名前を名乗ってはいるものの、一度も出雲の国、島根県を訪れたことのない人間なのだ。だが、この「出雲」という文字にも音にも、子供の頃からある憧憬(あこがれ)のようなものを感じてきた。それは、小学校の時に『古事記』の物語を読んで以来かもしれない。それともう一つ、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲という不思議な外国人のことをやはり小学校の時に知って以来かもしれない。「出雲」という響きは、スサノオや八岐大蛇(やまたのおろち)、大国主命や少那彦名の神が活躍する神話の世界と近代化が進む明治時代に日本を愛し、日本の女性と結婚し、日本人に帰化して英語で日本の文化を紹介し続けた八雲という人の魅力とがないまぜになって僕にある不思議なイメージ、憧れの念を抱かせる。それが何の偶然か、昨年の10月、出雲で言う神在月(かみありづき)にたまたま『出雲国風土記』を手にして、『古事記』に描かれたのとはまた違う出雲神話の世界に触れ、ますますその魅力の虜になったのだった。――いつか行ってみたい。そう思っていた矢先に今回のその人のお誘いは、その人の姿と言葉を借りて神に呼ばれたのだと、僕はそう感じたのだ。

神の用事は断わるわけにはいかない。お金の面でもスケジュールの面でも正直難しいと感じたのだが、行くことを前提に考えると事は開けていくもので、高速バスを使えば普通に東京で仕事をして、夜バスに乗り、当日の朝松江に着き、その日の催しに参加した後、同じ日にまたバスに乗れば翌日の仕事に間に合う時間に戻って来ることができ、費用もそんなにかからないことがわかった。かくして僕は2004年の建国記念の日を出雲の国で過ごすべく、その催しに参加し、同時に出雲の神々に会うべく手配を始めた。

出雲に行くとなると巡りたい場所はたくさんある。小泉八雲はその代表作の一つである『知られざる日本の面影』の中で次のように書いている。


「私も方々へ巡礼の旅をしなければならない。この市をぐるっととりまいて、湖のかなた、山々のあなたに、いつからともなく古い神聖な場所があるからだ。杵築(きづき)大社は『底つ岩根に宮柱(みやばしら)太しり、高天(たかま)の原に氷木(ひぎ)高しりて」(古事記・上巻)古代の神々によって建てられたもの。ここ杵築は聖地の中の聖地で、その社の宮司は天照大神の血筋を引いていると称している。次には一畑。これは盲人を目が見えるようにする薬師如来の有名な聖地で、その高みにあるお堂にたどり着くには六百四十の石段を登る。次に清水(きよみず)。十一面観音のある寺で、祭壇の前では灯明が千年ものあいだ消えることなく燃えつづけている。それから佐陀(さだ)。ここでは聖なる蛇が神への供(そな)え物となって三方(さんぽう)のうえで常に変りなくとぐろを巻いて横たわる。神々や人間の御先祖で、国々、島々を造られた伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の二神を祀った神社があるのは大庭(おおば)の里。それから八重垣。ここには恋をする者が恋しい相手と結ばれることを祈願しに行く社がある。それに加賀浦(かかうら)と加賀の潜戸(くけど)。こういうものを私は残らず見たい。」


(「神々の国の首都」森亮訳・講談社学術文庫より)


全くその通りだ。宍道湖を取り巻くこの地域のそこここに神話が溢れている。僕だってその全てをこの目で見てみたい。その空気を感じてみたい。が、今回はその人に呼ばれた催し物に参加するのが第一の目的である。そんなにあちこち回るわけにはいかない。どこかに限る必要がある。ではどこにするか?

神々の国出雲と言えば誰しも出雲大社を思い出すだろう。この神社と周りの日御岬(ひのみさき)や稲佐の海岸などは大国主命の国譲りの物語の舞台として有名である。が、同時に松江に近い熊野大社を中心とする地域も落とすわけにはいかない。今でこそ出雲大社の方が有名であるが、もともとはこの熊野大社こそ出雲の国の一宮(いちのみや)であって、出雲国庁もこの近くにあった。本来はこちらの方が出雲の国の中心だったのだ。それもそのは筈、この地域にある八重垣神社はヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトがクシナダヒメとの新しい生活を始めた土地、この国の始まりとなった場所なのだから。

もう一つ、僕は昨年紀伊の国なる熊野本宮大社を訪れ、そのこ時のことは「出雲頼通、熊野へ」という文章に書いたが(メールマガジン「恋歌」第52回53回参照)、その紀伊の熊野はこちら出雲の熊野大社を勧請したものなのだ。あの時、僕にはいくつかの疑問があった。もしかしたらその答は出雲の熊野で見つかるかもしれない――。

できれば出雲大社と熊野大社の両方を訪れたかったが、それは今回の限られた時間では無理とわかった。結局、松江市内から遠くない熊野方面に絞ることにした。昨年の熊野本宮への旅に続き、きっとその源流を辿る旅となるだろう。

そうこうしているうちにいよいよ旅立ちの時が来た。2月10日の夜、僕はカバンにカメラと旅行ガイド、それに『古事記』、『出雲国風土記』、『知られざる日本の面影』の文庫本を突っ込むと出雲行きの夜行バスに乗り込んだ。バスは早々と消灯され、皆カーテンを閉めて静かにしている車内で僕は時間を持て余す。高速から見える景色は僕が思っていた以上に、暗い。目にするものといったらこれまたそんなには明るくない高速道路の照明と、それから窓に沿ってずっと先まで延びている白いセンターラインだけだ。東海道ってこんなに暗かっただろうか?

以前、人工衛星から夜の地球を撮った写真を見たことがある。当然、都市が集中しているところは明るく、そうでないところは真っ黒になっている。誰もが予想する通り、アメリカやヨーロッパなど主に北半球の大陸がその輪郭を表していた。そんな中で僕が驚いたのはわが日本である。日本は、輪郭どころか、きれいにあの地図で見る日本列島の形そのままに輝いていたのだ。日本の各地に田舎と呼べるところはまだまだたくさんあると思っていたのだけれど、衛星から見ると日本列島は隅々に至るまで都市化された国なのだと思った。

そんな写真を見ていたし、それから学生の頃はよく東京駅午後11:25分発大垣行きの列車に乗ったもので、これは日本一長い距離を走る各停の列車としてよく知られているが、東海道は夜と言えどもさすがに都市が並ぶ地域だけあって車窓の景色が面白いと感じていたからだった。

いや――。衛星の写真も、東海道の旅も、きっと所謂バブルの崩壊以前のことだ。東名高速はJRの東海道本線よりは山寄りを走ってはいるが、きっとこの暗さは今の日本が置かれているデフレの深刻さを表しているのかもしれない――。

そんな風に僕は変化に乏しい車窓を眺めていた――。それはもう、景色を見ているというよりも、夜そのものを見ているようだった。夜を見る――夜見(よみ)――そう、夜見の国とは、もともとは単なる死の世界ではなかったのだ――。僕は『出雲国風土記』に夜見の島の記述があるのを読んでそう気づいたことを思い出した。島根半島の東の端、米子から境港へと向って弓ヶ浜半島が延びているが、ここは「風土記」が書かれた時代には米子側と陸続きになってはおらず、「夜見の島」と呼ばれる島だったらしい。「ヨミノクニ」と言えば普通は「黄泉」と書くが、これはきっと中国から入ってきた表現に違いない。もともとの日本語では「夜を見る」という意味であったろう。

どうしてそこに拘るかと言うと、それは吉野裕子さんの『蛇――日本の蛇信仰――』という本を読んだことが影響している。吉野さんによれば、古代の日本には全国的に蛇信仰が行き渡っていたという。しかし、大陸から入ってきた新しい思想の影響でいつしか蛇は忌み嫌われる存在となり、蛇に対する信仰は隠されたものとなったというのである。

「黄泉の国」のことで言えば、イザナギが「黄泉の国」から帰って来て、禊(みそぎ)をしてアマテラス、ツクヨミ、スサノオが生まれる話は有名だが、この禊の部分で、イザナギが身につけているものを捨てていくところ、『古事記』は執拗なまでに詳細にわたって述べている点に吉野さんは着目する。これは「ミソギ」の本来の意味は「身殺(そ)ぎ」であって、つまり脱皮を繰り返しては新しく生まれ変わり続ける蛇にあやかろうとした行為であったのだそうだ。

そう考えれば、イザナギの物語は、常世の国、永遠の国である「ヨミノクニ」を訪れ、「身殺ぎ」をして新しく生まれ変わる物語として読めるのである。僕が昨年訪れた熊野は常世の国と呼ばれていたが、そこを訪れることで今の自分は死に、新しい人間として生まれ変わると信じられていたのだった。「ヨミノクニ」は穢れた場所ではない。寧ろ、聖なる、永遠の世界であり、死とは永遠につながるものであり、また新しい生へとつながるものであったはずだ。

こうした考えは中国にもあったようで、「真理」「真実」という時の「真」という漢字は、もともとは人が死んで斃れている象形であったという。それ故、「真」がつく漢字には「鎮」「慎」「顛」等、死に関するものが多い。その文字が真理や真実を表すことになったというのは死の世界こそ永遠、普遍のものと古代の中国人が考えていたからに違いない。

暗い車窓を見つめながら、僕は「夜見の国」を通り抜けているように感じていた。この長いトンネルを抜けるとそこには新しい世界が待っているのだろうか。僕は生まれ変われるだろうか。そして、建国記念という日に、この国は新しく生まれ変われるだろうか。

そんなことを考えているうちに、いつしか思いは東京からメールを送ってくれた友人へと移り、やさしい気持ちになりながら僕は眠りに落ちていった――。


*' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *'


朝の6:30――。予定通りにバスは松江の駅に着いた。まだ暗い。今日の松江の日の出は6:57と聞いた。もしかしたら見ることができるかもしれない。建国記念の日の御来光を。新しい時代、新しい国のはじまりを告げる光を。

どこが一番よく見えるのだろう。きっと、松江城の天守閣からの眺めが一番いいのだろう。が、ここは入場料を払って入る所である。こんな時間に開いてるはずもない。であれば、駅の周りにいくつかあるホテルか――。

僕は初めて降り立ったこの街を、新鮮な息吹を感じながら歩き回った。ピィーヨロー。この声は鳶だろうか。そうだ。そう言えば八雲が「神々の国の首都」か何かに書いていたではないか。そう、見るもの聞くもの全てが珍しく、貴いものに映った小泉八雲は、この松江という街の一日を実に新鮮に描いた。この文章を読めば、誰しも松江という街に憧れ、好きになるに違いない。そんなワクワクする文章を八雲は一日の初めに最初に聞こえてくる音で始める。米搗きの杵の音、お寺の鐘の音、物売りの声、鳥の囀りと、聞こえて来る音を追いながら、この街が次第に目覚め、賑やかに人の営みが行われていく様が実にドラマチックに描かれている。

ピィーヨロー。今聞こえて来るのは米搗きの杵の音ではなくて、朝早く商品を積んで走る自動車の音だったり、早くもシャッターを開ける音だったりする。きっとこれらの音を八雲は聞かなかったに違いない。が、あの鳶の鳴き声は、八雲が聞いたものと同じだったのだろうかと思う。あのピィーヨローを聞いて八雲も朝を迎えたのだろうかと。その時、やはりこの街の一日のはじまりを告げる車の音やシャッターの音、信号の音など、全てが新鮮に聞こえてくるのだった。

耳をすましてそんなことを考えながら歩いているうちに松江新大橋に出た。時計を見ると6:47。日の出はもう近い。川の向こうに見える山々は赤みを帯びて今しも太陽が現われそうであった。と、川に沿った歩道に三脚を立ててカメラを準備している人がいる。いかにもこの付近に住むおじさんである。ということはここはきっと日の出を見るのにいい場所に違いない。僕はここから御来光を拝むことに決めた。

今しも太陽が現われそうであった、と僕は書いた。が、よく見ると山の上には分厚い雲が覆っているのだった。もくもくと、あたかも太陽を隠すかのように。この時はまだ僕は気づいていなかった。何故この土地が「八雲立つ出雲」と呼ばれたのかを。
時計は7:00を過ぎた。きっと山の上には出ているに違いない。が、やはり雲は分厚く空を覆っているのだった。僕は待った。いつか雲が晴れるか、いや晴れなくても、あの雲の上に日輪はその姿を現わすに違いないと。

そして――。待つこと30分、7:17にようやく雲の端からキラリと光って太陽はその姿を現わした。

 

建国記念日の朝、太陽が現われた瞬間
松江新大橋辺りにて

 

[ はじまり ]

その一瞬
辺りは強烈な光で満たされる
この光と共に世界ははじまる
生きとし生けるもの全てを等しく照らし
生きる力と恵みを与えるこの光の如く
あらゆる生命(いのち)が光り輝く
新しい国の誕生を
新しい人間の創造を


こうして国造り神話の国、出雲での建国記念日の朝は明けた。


つづく


*' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *'


当サイトに掲載されている作品の著作権は
全て「恋歌」編集部に属します。無断転載、複製を禁じます