【メールマガジン「恋歌」第63回】
2004.03.11

 

八雲立つ 出雲八重垣
妻籠(つまご)みに 八重垣作る
その八重垣を


スサノオノミコトが歌ったとされる日本最初の和歌である。ヤマタノオロチを退治したスサノオは、救い出したクシナダヒメを妻として迎え、その新婚の宮をこの出雲の地に築いた。その宮があった所に建てられているのが八重垣神社である。御来光を拝した後、僕は松江駅へと戻り、八重垣行きのバスに乗った。

地図で見ると山の中にあるように思えたのだが、バスの走る道は案外広く、両側にはずっと民家が続いている。駅から約20分と聞いていたが、いつまでも民家が続き、山の中に入っていく様子もないので時折不安になるのだった。が、そんな心配を余所に、急に神社が現われ、バスの運転手は終点に到着したことを告げた。

バス停から神社へと向うとすぐ右手に鳥居があるが、反対側、左手には見事な椿の木、夫婦椿(めおとつばき)が迎えてくれる。これは、クシナダヒメが植えた二本の椿の枝が、やがてひとつの木となったもので、縁結びの御神木とされているものである。そう、ここ八重垣神社は縁結びの神様として知られたところなのである。境内には3本の夫婦椿があり、いずれも根元と先の所では二股になっていて、あたかも二本の別々に伸びて来た木が、互いに求め合い、ひとつになったかのよう。古(いにしえ)の人と言わず、現代に生きる私たちでさえ、これらの不思議な椿たちには神秘の念を覚え、自らの伴侶(となるべき人)との行く末を思い、その幸多からんことを願わずにはいられない。

考えてみれば、この二本の木が一つになったようなこの椿も、蛇を連想させるものであったかもしれない。先に紹介した吉野裕子さんによれば古代の日本人が蛇に驚異したのは、その脱皮を繰り返しては新しく生まれ変わること、まぶたがなく、その目は永遠の光であること、そして愛撫に4時間、全体で26時間にも及ぶというその濃厚な交尾であったという。吉野さんの『蛇』に掲載されている写真を見れば、雄と雌の蛇が互いに絡み合うその姿は注連(しめ)縄そのものであることを誰もが認めるであろう。注連縄とは蛇の交尾の象徴だったのである。

日本人には男も女も一人では半身であり、男と女とでひとつになるという考えがある。「つま」というのは一つのものの両端を表す言葉であるが、要するに男であれ女であれ、ひとつとなるべき自分の半身を「つま」と呼んだのである。この時、正に二匹の蛇がひとつの縄のようになる姿も、二つの木が一本になっていくようなこの夫婦椿も、男と女の究極の愛の姿であったに違いない。私などがこれらの椿に神秘の念を覚えるのは伝説的なこともあろうが、そうした古代人の記憶が心の奥底に刻まれているからかもしれない。

 

夫婦椿(左)と八重垣神社拝殿(右)


さて、鳥居をくぐるとすぐに拝殿である。大きな注連縄がまず目につく。明るい境内。ここがスサノオとクシナダヒメの新しい生活の地であると聞かされていたり、縁結びの神と言われていたりするせいもあるのか、神社にしては辺りの空気はやさしいように感じる。ここに祀られているのは他でもなくスサノオとクシナダヒメなのだが、スサノオと言う時に私たちがイメージするあの荒々しさはここにはない。ここにいる神様は確かに愛の神であろうと思う。

境内自体はそんなに広くはない。本殿の左にクシナダヒメの母、テナヅチの社がある。更にその左には宝物殿があって、クシナダヒメと伝えられる女性の絵が収蔵されているらしいが、まだ朝早いからだろう、宝物殿はまだ閉っていた。とすれば、あとは見るべきほどのものもなく、奥の院へと向う。

境内と奥の院との間に、結婚式発祥の地とした立て札があって、ここに大手結婚式場チェーンが運営する小さな結婚式場がある。結婚式発祥の地――果たしてスサノオとクシナダヒメが今言うような結婚式をしたかどうかは『古事記』などからはわからないが、どちらにしてもここは縁結びの神であろうし、後に強大な勢力を誇った出雲の国も、スサノオとクシナダヒメがここで結ばれ、生活をはじめたことから興ったことを考えれば、この二人にあやかってここで結婚式を行うのもいいかもしれないと思う。大手の運営によるものであるに拘わらず、その式場の建物が辺りの景観を壊さないようにひっそりと建っているのも好感が持てる。

結婚式場の前を通り過ぎると、美しい並木の参道が奥の院へと導いてくれる。梅の花の淡いピンクが気持ちを明るくしてくれる。奥の院と言えば鬱蒼とした森の中にあって、そこに行くのもなかなか困難というイメージがあるのだが、ここは違う。全てが明るく、やさしい。

その並木の下を通っていよいよ奥の院のある森に入る。やはり明るくて、涼やかで、非常に心地よいところだ。「清々(すがすが)し」という言葉が浮かぶ。そう、『古事記』によれば新婚の宮を探して回った時、この地に来て「吾(あれ)此処(ここ)に来て、我(あ)が御心すがすがし」とおっしゃってここに宮を作ることを決めたのだという。そこでこの地を須賀(すが)と言うようになったのだと。確かに、ここの気持ちよさは格別である。いつまでもここにいたいという気持ちにさせられる。足下の柔らかい土も、辺りに高く伸びる木々も、すべてがいとおしい。その土を踏みながら奥へ入っていくと小さな、しかしいかにも由緒のありそうな趣のある池がある。これは占いで有名な池で、小泉八雲も『日本の面影』に収められた「八重垣神社」という文章で詳しく書いている。これは紙の上に銅貨――今は10円玉なのだろうか――を乗せて池に浮かべ、それがどこに沈むかを見守るというものだ。八雲によれば、池に住むヤモリがその銅貨に触ればその恋は紙の御心に叶うもので幸せになるということだが、現在では、自分の立っている場所の近くに沈めば想う人と結ばれるのが早く、遠くに沈んだり、なかなか沈まなかったりするのは結ばれるまでまだまだ先が長いか、縁がないということになっている。

 

清々しい奥の院の森(左)――そこには恋占いの池がある(右)


僕はしばらくこの奥の院の心地よい空間に身を委ね、やさしい空気に浸っていた。その心地よさに体が癒され、どんどん元気を回復してくるようである。そして涼やかな風と空気に頭がすっきりとしてくる。そう、こういう空間、こういう土地であってこそ新しい何かを生み出せる。スサノオとクシナダヒメのここでの新しい生活はそのままこの国を創ることへとつながっていったのだ。

 

[ 八重垣神社にて ]

「清々し」とあなたは言った
その言葉の通り
こんなにも心地よいこの土地で
あなた達は生活をはじめた
清らかなこの空間は
純粋に生きるあなた達そのもの

そう
清らかさと美しさこそ
何もないところからあらゆるものを
生み出す力なのだ

愛する人のために働き 田を耕し
やがて人が増え それは国となった
全てのはじまりはここに
清らかな土地
清らかな心の二人

 



奥の院への参道

 

離れがたかったもののものの、いつまでもここにいるわけにもいかない。僕は次の目的である神魂(かもす)神社へと向う。そこへは歩いていくことにしていたのだが、八重垣神社の鳥居を出るとそのまま真っ直ぐ、最初に見た夫婦椿を過ぎていくと、ここから神魂神社や八雲立つ風土記の丘へと続くウォーキングコースがあった。このコースに沿って歩いていくことにする。

もうこの道に沿っては民家は殆どない。辺りに人は誰もいない。山に抱かれながら、やさしい風に吹かれながら、一人この一本道を歩いて行った。八重垣神社の心地よい空気はずっと続いていて、この道を歩くのはとても楽しい。ふと、古代の日本では婚姻の形態が招婿婚(しょうせいこん)、夫が妻の許に通う形のものであることを思い出した。毎日、4、5キロの道程(みちのり)を歩いて通うことは普通であったらしい。かつてこの道を歩いて愛しい人の許に通った男がいるのだろうかと、こんな道ならその道程も辛いものにはならず通うことが楽しかったであろうかと、そんなことに想いが至るのだった。



八重垣神社から神魂神社、風土記の丘へと至るウォーキングコースは心地よく、歩くのが楽しい


このウォーキングコースを15分程歩いたところで神魂神社に着いた。何故「神魂」と書いて「かもす」と訓(よ)むのか、詳しいことはわからないらしい。私は、最初この文字を見た時、『出雲国風土記』によく出て来る神魂命(カムムスヒノミコト)のことを思い出した。神魂命は『古事記』では神産巣日神(カミムスヒノカミ)として、アメノミナカヌシノカミ、タカミムスヒノカミと共にこの世界のはじめに、天上に最初に現われた三柱のうちの一神である。「カモス」とは「カムムスヒ」が訛ったものではないのか。イザナギ、イザナミに先立つ、この国のはじめの神様を表すために――。

この神社はイザナミノミコトを祀る所である。そして現存する最古の大社造りの建築として知られている。大社造りとは有名な出雲大社に見られる建築の形式であるが、出雲大社が将軍吉宗の時代、1744年(延享元年)に改築されているのに比べ、神魂神社は先立つこと400年、室町時代の1346年(正平元年)に建立されているというもので、国宝に指定されている。更に、この大社造りには男造りと女造りとあるようで、出雲が男造りであるのに対し、この神魂神社の方は女造りと言うのだそうである。この、イザナミという女神を祀ること、そして女造りという形式であることにあるやさしいイメージを抱いていた僕は見事にその予想を裏切られることになる。

鳥居をくぐって低くなだらかな階段を20段程上ってしばらく行くと、正面は明らかに境内へと上って行く坂があり、「女坂」と記されている。「女坂」――。女の人でも境内に行くことができるように造られた緩やかな坂、ということであろう。紀伊の熊野への道もそうだったが、古代の日本の神社は、老若男女全てに開かれ、どんな人をも受け容れていたのであって、その為にお年寄りや女性、子供でも訪れることができるよう、そこへと至る道もやさしいものであったことを思い出した。「女坂」――。とすれば、男は――。と見ると右手に大きな岩を組んでできた急な石段がある。この石段を登ればすぐに境内に辿り着けそうである。女坂の方はぐるっと回りながら上がっていくようである。ならば男の自分はと、この急な石段を登ることにした。

 

神魂神社の鳥居(左)――そして急な石段を登り詰めるといきなり拝殿が(右)


そんなに段数多いわけでもないが、次第に息は荒くなっていった。そしてその急な石段を登り詰めると、すぐ目の前に拝殿が現われ、はっと息を呑む。「神さびる」とは正に、この社殿とこの境内の空気のためにあるような言葉である。「女造り」とは言っても、この社殿は荘厳で質実剛健といった感じで、あまり女性的な感じはしないのだった。実は、「男造り」「女造り」それぞれの特徴の一つは、本殿の屋根の上にある罰点の部分にある。この罰点の先端部分が天に向って尖っているのが男造り、平らになっているのが女造りというわけである。今ここに神魂神社のその部分の写真を掲げておくので、後で男造りの熊野大社と比べてみて頂ければお分かりになるかと思う。しかしこの罰点で男と女とは――尖っているのが男で平らなのが女――と、考えていて、あっ、と思い当たったのがまたもや蛇である。この罰点、またしても絡み合う蛇のデフォルメされたデザインではないか! それはあの夫婦椿とも相似形である。脱皮しては常に新しく生まれ変わり続ける蛇、二体の雄と雌が正に一体となり、仲睦まじく、濃厚な交尾をする蛇、その蛇こそが古代人の生命力の源であり、生きるということの究極の姿であった。しかして蛇は神となり、その象徴が社殿の一番高く目立つところにあるのではないのか。

 

大社造りの本殿(左)とその屋根の部分(右)

そんなことに想いを馳せながらも、僕はこの神社の荒々しくも逞しい、古代人の息吹きを感じていた。ここに祀られているのはイザナミノミコトということだが、昨年熊野に行った折に訪れた、同じくイザナミを祀る花の窟(いわや)神社がどこか大らかでやさしい、いかにも母親らしい空気が漂っていたのに比べると、ここのイザナミはもっと力強く、勇ましいとすら感じる。そしてこの空気に触れるうち、次第に自分の中に力強いエネルギーが満ちて来るのを感じた。神魂というその名の通り、ここは正に、この国を生んだ魂に溢れる空間なのだ。

柏手を打って参拝する。先程の八重垣神社では手を合わせた時に図らずも愛しい人のことが心に浮かんだが、今度は違う。「この国を救い給え。我らの裡に再び魂の蘇らんことを。」心の裡にそんな祈りを捧げていた――。


[ 神魂 ]

この国を救い給え
我らの裡に再び魂の蘇らんことを
何もない所から
あらゆる苦難を乗り越え
国を創りしあの力を
再び我らに与えよ

「愛」とあなたは言う
愛より他に
国が栄え 人が幸せに
戦いに勝ち 平和をもたらす
力はないと

「行け 男よ」とあなたは言う
愛する者のために戦えと
愛を忘れてはならぬ
愛があれば戦い抜けると

グズグズするなと言われているようであった。わかったら早く行け、この国のためにお前のできる事を早く為せと、そう言われ、急き立てられられているようであった。そう、僕は目的があってこの地に来ているのだ。いつまでも旅行者気分でブラブラしているわけにはいかない。僕は慣れない足つきで例の急な石段を下りると、次の目的地である熊野大社を目指した――。


つづく


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