ここで、滝の下にあった社はより見晴らしの良い、向かい側にある山の上に移され那智大社となり、そこでは主神は夫須美大神(フスミノオオカミ)、つまりイザナミノミコトです。ところが、滝の下に今も残る別宮飛瀧神社は大己貴神(オオアナムチノカミ)、つまり大国主命を祀っています。ここで大国主命が出てくるにはいろんな理由や経過がありそうに思いますが、まだ詳しくは調べていません。が、恐らく、もともとは愛の神であるイザナミを祀っていたのではないか、と想像します。

夫須美大神(イザナミ)を祀る那智大社神殿(左)とやはり平重盛が植えたという樹齢800年の樟の木(右)
と申しますのも、ちょっと言いにくいのですが、那智大瀧の下半分の岩肌の部分、あれは女陰だと言われているのです。そこに白い水がさーっと降りて来る……先程生命の源という表現をしましたが、正にそういう生命の源としての男と女の交わりを象徴しているのです。だから神様だと思うのです。その神様に縁結びと安産のイザナミノミコトが選ばれるのはごく自然なことでしょう。
この大瀧の下に、文覚(もんがく)の滝と呼ばれる滝があります。文覚というのは真言系の僧の名前ですが、出家する前の名前を遠藤盛遠と言い、平清盛や西行法師と同窓であった人です。ある時友人の妻である袈裟御前に横恋慕し、結果的には過って彼女を殺めてしまい、女性を愛するということ、人生の無常などに悩み苦しんだのでしょう、出家して日本全国を修行して回るのです。『平家物語』には、那智の滝に21日間打たれるという業を達成したことが書いてあります。『平家物語』で文覚を助けるのは不動明王ですが、僕は彼がここで荒行をしたことは、その出家の原因ともなった男女のことと関係なくはないのではないかと思うのです。この大瀧の下で、ひとは男と女の真実を悟るのではないでしょうか。

那智の大瀧(左)と文覚の滝(右)
そう言えば――。この清らかな空間に身を置いている感じは、空海が持ち帰った密教の経典、『理趣経』の響きに通じるものがあります。この経典は清めるサ行の音、祓うカ行の音など空間をきれいにする音が多く含まれていて、読んだり聞いたりするだけで周りの空間も自分の身も清らかになっていくのです。空海もまた男と女の問題に大いに悩んだ人であったと聞きます。特に仏教において不浄とされた男女のことを、不浄どころか聖なるものである、そしてそれこそが生きるエネルギーの源であることをこの大瀧は教えてくれているように思えます。
恋に悩める蒼白い顔の遠藤盛遠は、この那智で荒行を遂げて文覚となり、高雄山にある神護寺の再興へと精力的に動き、そして腐敗した平家政権を倒し、新しい時代を創らんとその人生を賭けて東西を奔走するのでした……。
さて、滝を見たあとは勝浦のある有名なホテルへ向かいます。観光旅館というのでしょうか、いろんなレジャー施設があったりして、私などはちょっと戸惑ってしまいました。熊野や勝浦を訪れる意味とは、私にしてみれば、東京の日常の生活では得られな
いものを求めてのことなのです。そう言えば、もともと後白河法皇はじめ、多くの上皇たちが熊野詣をしたのは、都での政治や生活に行き詰まりを感じて、一度そうした全てを捨てて甦り、新たな人生をスタートさせ、新たな政治体制を築くためであったと聞いています。
とは言え、このホテルの温泉はなかなか面白く、海に面した洞窟に温泉を作ってあるので岩場に波が寄せる風景を楽しみながら湯の中でくつろげるという全く贅沢な温泉なのです。そのうちの一つ、紀州のお殿様も時を忘れたという忘帰洞から湯につかったまま御来光が拝めるというので、これは拝まないわけにはいかない、ということになりました。
翌朝、午前4:30に起きて日の出の時刻の前から一番いい場所を陣取ります。が、空は一面の雲。わずかに、わずかに太陽が昇ると思われる部分の雲が一部切れているのです。高まる期待と不安。雲の切れ目ははじめ黄色く、やがて一部が赤みを帯びてきます。きっとあの赤い部分の下にいるに違いない。そして――。
現われました。鮮烈な強い光を放って、太陽はその姿を表しました。こんなに雲が重く覆っているのに、そのわずかな切れ目から辺り一面を照らす太陽。それは正に神であり、私たちに生き方を教えてくれているようでもありました。どんな状況でも自ら輝き、世を照らせと。
[日輪]
岩に当っては砕け散る
荒々しい波の間から
重々しく空を覆う
雲のわずかな絶え間から
強い光を放って現われたるその姿
その姿に狂喜せずにいられようか
日輪よ
新しい時を告げる日輪よ
その光でこの暗き世界を照らし給え
その光で我ら一人一人の命に
輝きをもたらし給え
この星を 輝く生命で
満たし給え
このあと、コンサート前からずっと晴れていた空から雨が降り出しました。まるでこのツアーのために我慢してくれていたような雨、感謝せずにはいられません。バスは美しいエメラルドグリーンの南紀の海に沿って走りながら、関西国際空港へと向かったのでした。

空海と天の邪鬼が橋架け競争をして未完に終ったという南紀串本の橋杭岩
―了―
*' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *' *'
当サイトに掲載されている作品の著作権は
全て「恋歌」編集部に属します。無断転載、複製を禁じます
|