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        * * *番外編 第九回 * * *


暑い盛りですが、こよみの上では秋のおとずれ、、、


さてさて、暑い恋歌の番外編。

今回のテーマは「振られても振られても〜片想い」です
乞(恋)いの王道は、なんといってもこの片想いではないでしょうか。
乞いの対象はたとえ誰でも、その対象の存在こそが必要なのです。
乞(恋)している自分と恋焦がれる相手がそこにいるという事が乞(恋)いの真髄で
しょうね、、。

ではごゆっくりお楽しみくださいませ。

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   第9回 振られても振られても〜片想い

さて、今日は天平のプレイボーイ、大伴家持に29首もの歌を贈り続けた笠女郎(かさ
のいらつめ)の歌を見ていきます。大伴家持は多くの女性と恋の歌を交わしています
が、これだけの歌を贈り続けた笠女郎に対して、返歌がないのですね。いや、実際は
2首あるんですけど、それは別れた後の歌で、返歌というよりもほとんどつぶやきに
近い。まず、その辺の歌から見ていきましょうか。

笠女郎は父親の仕事の関係で都に来ていたのか、結局は地方に帰ってしまうことにな
るのですね。それで帰ってから家持に贈った歌が(巻第四609〜610)、

情(こころ)ゆも 我(あ)は思(も)はざりき
またさらに わが故郷(ふるさと)に
還(かへ)り来(こ)むとは

<心にも思ってもみないことでした
再びわが故郷に帰って来ることになろうとは>

近くあらば 見ずともあらむを
いや遠く 君が座(いま)さば
ありかつましじ

<お近くにいるのでしたら会わないでもいられましょうが
こんなに遠く離れてあなたがいらっしゃるとなると
とても生きていられそうにありません>

この歌に対しする2首なのです。家持の返事は(611〜612)。

今更(いまさら)に
妹(いも)に逢はめやと 思へかも
ここだわが胸 いぶせくあるらむ

<もう二度とあなたとは会うまいと思うからでしょうか
こんなにも私の胸はふさぎこんでしまうのです>

なかなかは 黙(もだ)もあらましを
何すとか 相見そめけむ
遂(と)げざらまくに

<生なかには黙っている方がよかったものを
何を思って二人は逢い始めたのだろうか
この恋を結局は遂げることはできないものを>

1首目はそうでもない、と思うかもしれませんが、2首目と合わせて読むと、私など
は何だかつれないなぁ、と思うのですね。ずっと無視していて、田舎に帰ったと知ら
せる歌が届いた時に、あぁ、あいつ田舎に帰ったのか、まぁもう会うこともないだろ
うなぁ、と来し方のことを思い出しつつ詠んでるように思えるのです。胸がふさぎこ
んでしまうのは、悪いことしたな、と後ろめたいからでしょう。若気の至りで共寝し
たんでしょうけど、家持より笠女郎の方が本気になっちゃった。家持はその後はそれ
ほどでもなかったんでしょう、彼女の歌をずっと無視し続ける。で、田舎に帰った後
に、半ば後悔しながらこの歌を詠んだんでしょうね。

あ、これは私の勝手な想像です。笠女郎の詳しいことは全くわかっていません。全く
わかっていないので、女郎の残した歌から勝手な想像で、この人の片想いの恋を再現
してみようと思います。笠女郎の歌は、巻第四(587〜610)に24首集められている他
は、巻第三(395〜397)に3首、巻第八(1451、1616)に2首収められていますが、
その配列は必ずしも時間の経過を追っているわけではないのです。そこで、これらの
歌に見られる表現から、家持を見初めた頃、会う前後、再び会いたいと恋焦がれる
頃、に大まかに分けまして、恋の成り行きを想像してみようと思うのです。

まずは、家持のことを知り、憧れている初期の頃のもの(1451)です。

水鳥の
鴨(かも)の羽(は)の色の 春山の
おほつかなくも 思ほゆるかも

<水鳥の鴨の羽の青色をした春の山のように
あなたの姿がぼんやりと思えてくることです>

遠くから見ていてぼんやりとしたその感じを歌っているのですが、それを霞のかかっ
た春の山に例えているのですね。しかもその春の山の青い色を引き出すのに鴨の羽の
色という言葉をもってくる。そしてこれらの例えが、「の」「の」「の」と「の」を
5回も並べてあるリズムをつくりながらも、どこに行くのかわからない不安を象徴し
ているように思います。こうした例え、こうした技巧は、万葉集初期のものにはな
かったですね。笠女郎は大伴家持と同じく、万葉も後期の人ですから、寧ろ『古今和
歌集』に近い作風になってきてますね。

闇(やみ)の夜(よ)に
鳴くなる鶴(たづ)の 外(よそ)のみに
聞きつつかあらむ 逢ふとはなしに(592)

<闇の夜に鳴く鶴の声のように
あなたのことはよそながら遠くで聞き続けるだけなのでしょうか
逢うことはなくて>

同じく例えがイメージを喚起していますね。夜鳴く鶴は、姿も見えず、どこにいるの
かもわからない。ただその声が聞こえてくるだけ。家持さん、あなたもそのような人
ですね、というわけですね。

これまでの2首は、笠女郎にとって家持は遠い存在だったのですが、やがて近くで家
持の姿を見ることができるチャンスが訪れます。何かの行事の折だったのでしょうか。

うつせみの 人目(ひとめ)を繁(しげ)み
石橋(いはばし)の 間近(まぢか)き君に
恋ひわたるかも(597)

<現実の人の目がうるさいので
川に並べた石橋のように間近にいながら
あなたにはただ恋焦がれるばかりです>

石橋というのは、川を渡れるように石を並べたもので、当然渡りやすいように石と石
の間隔は近いわけですね。これも例えですが、僕は他の歌に比べると例えの度合いが
低いというか、本心がずっと表れている表現に感じます。今まで会いたい会いたいと
思ってきた。その彼がもうすぐそこに、目の前にいる。話しかけてみたい。だけど周
りにはいろんな人がいて、とても告白できるような感じではない。その気持ちの高ぶ
りが、より直截な表現になっているのではないでしょうか。

そして、そこで見た彼の印象が次の歌になったのではないでしょうか。

伊勢(いせ)の海の
磯(いそ)もとどろに 寄する波
恐(かしこ)き人に 恋ひわたるかも(600)

<伊勢の海の磯にとどろいて寄せる波のように
身もおののくような人を恋しつづけてしまうことです>

あぁ、やっぱり思った通り素敵な人だ。だけどあまりに立派な人だ。とんでもない人
を好きになってしまった、という感じでしょうか。そのとんでもなさを伊勢の海の磯
に寄せる波と表現するわけですね。

こうして恋焦がれる日々が続くわけですが、とうとう逢う機会があったようです。そ
の直後なのでしょうか。

朝霧(ぎり)の
おほに相見し 人ゆゑに
命(いのち)死ぬべく 恋ひわたるかも(599)

<朝霧のようにぼんやりとしかお逢いしていないので
命も絶えそうになるほど恋し続けることです>

「おほに」は「ぼんやり」です。「相見し」という言葉から、実際に逢瀬を過ごした
ことがわかりますが、恐らく女郎にとっては激しい恋、ずっと恋し続けた家持との一
夜はあっという間に過ぎ去ってしまったことでしょう。後になってみると、あれは夢
だったのだろうかと思えるつかの間の出来事。それでも身体は忘れられないわけです
よね。なまじっか逢ったばかりにますますまた逢いたい、との思いが募る。そんな歌
ではないでしょうか。

彼女はその深い気持ちを表現すべく家持に贈り物をしたりします。

わが形見(かたみ) 見つつ思(しの)はせ
あらたまの 年(とし)の緒(を)長く
われも思はむ(587)

<この私の形見を見ながら私のことを想って下さい
あらたまの年経るごとに末永く
私もあなたのことを想い続けていますから>

形見、は前にも湯原王の歌の時に出てきましたが、生きていても、自分の魂の乗り
移っ
たものとして愛する人に贈るものを言うわけですね。これを自分と思って下さい。私
のことをいつも心に掛けていて下さい、ということですね。

ところが、家持の気持ちはどうだったのか。どうも雲行きが怪しいのです。

衣手(ころもで)を
打廻(うちみ)の里に あるわれを
知らにそ 人は待てど来(こ)ずける(589)

<衣の袖を打つ打廻の里にいる
私のことを知らないで
あなたは待っても来ませんでしたね>

果たして約束はあったのかなかったのか。ともかく女郎は待ち、家持は来なかったわ
けですね。女郎としては家持の気持ちを信じているわけです。何故なら、

奥山(おくやま)の
岩本菅(いはもとすげ)を 根深(ねふか)めて
結(むす)びしこころ 忘れかねつも(397)

<山奥の岩本の菅がその根を深く張るように
深く約束した心を忘れることができません>

あんなに深く心交わしたのに、彼が裏切るはずがない、というところでしょう。とこ
ろが会えない日々が続き、恋焦がれる心は休むことがありません。

皆人(みなひと)を
寝(ね)よとの鐘(かね)は 打つなれど
君をし思(も)へば 寝(い)ねかてぬかも(607)

<みなさんもう寝る時間ですよと
夜十時の鐘は鳴るけれども
あなたのことを思うと眠ることができません>

そして寝てみたところで、

剣太刀(つるぎたち)
身に取り副(そ)ふと 夢(いめ)に見つ
何如(いか)なる怪(け)そも 君に相(あ)はせむ(604)

<剣太刀を身に付ける夢を見ました
どういう表れか あなたに寄せて占ってみましょう>

剣とか太刀とか男の象徴ですよね。それを身につけるということは……。もうどうい
う意味か、占わなくてもわかります。要するに寝たい、ヤリたい、ということです。
だけど女の側からそうは言えない。そこで、こんな夢がありましたよ、これってこれ
から起こる現実を表していますよねぇ、ねぇ、あなた現実にしてくれるでしょう、わ
たしの気持ちわかってるでしょう、いつまで待たせるの、という、婉曲的ですけど、
積極的に男に迫ってます。

それでも家持は反応しないのですね。だんだん女郎も心細くなってきます。

わが屋戸(やど)の
夕影草(ゆふかげくさ)の 白露(しらつゆ)の
消(け)ぬがにもとな 思(おも)ほゆるかも(594)

<我が家の夕映えに光る草の白露
そのはかない白露のように消えてしまいそうに
心細く思えることです>

美しいイメージですね。これはもう万葉というよりは平安の古今の美に近いですね。
もうあなたへの思いゆえに死んでしまいそう、だんだん悲壮感を増してきます。

恋にもそ 人は死にする
水無瀬河(みなせがは) 下ゆわれ痩(や)す
月(つき)に 日(ひ)に異(け)に(598)

<恋にこそ人は死ぬのです
水のない川は見えないけれどもその地下を水が流れているように
表には見えずとも私は毎日毎月痩せていきます>

うーむ。女の側からすれば、もう死にそう、と必死です。男からするとこれはもう強
迫ですね。あんた、あたしのこと殺すつもりか、という。

わが命(いのち)の
全(また)けむかぎり 忘れめや
いや日(ひ)に異(け)には 思ひ益(ま)すとも(595)

<私の命の続くかぎり忘れることがありましょうか
日に日にこの想いが増すことはあっても>

命とか死ぬとかそういう言葉が増えてきます。そして極めつけ、

思ふしに
死(しに)するものに あらませば
千遍(ちたび)そわれは 死に返(かへ)らまし(603)

<恋の中(うち)に死ぬということがあるのなら
私は千度でも死を繰り返すことでしょう>

もう日に日に痩せるとか、日に日に思いが募るとか、そういう表現では足らなくなり
ました。千度でも死んで生き還ってきてやる、と殆ど恨みに近い感じになってきてま
す。恐い恐い。それでも家持さん、あなたは無視したのですねぇ。ここまで無視され
ると、もう皮肉の一つでも言ってやりたくなります。

八百日(やほか)行く 浜の沙(まさご)も
わが恋に あに益(まさ)らじか
沖つ島守(しまもり)(596)

<何年もかかって行くような長い浜の砂の数さえ
私の恋より多いということがどうしてありえましょう
ねぇ、遠くの沖で見守る島守さんよ>

「沖つ島守」というのは家持のことを皮肉っているのでしょうね。それにしてもこの
笠女郎、よくまぁここまで自分の恋の深さをいろいろな例えで表現できるものです
ね。女の人ってそうなんでしょうか。僕などは「大好きです」で終わってしまいそう
ですが、イメージが貧困なんですね。こういうところに学ばなければと思います。

さて、ここまで来て、そしてここまで無視されて、とうとうキレます。最後のヤケク
ソの一発が次のものと考えます。

相思(あひおも)はぬ 人を思(おも)ふは
大寺(おほでら)の 餓鬼(がき)の後(しりへ)に
額(ぬか)づくがごと(608)

<思ってもくれない人を想うなんて
大寺の役にも立たない餓鬼像を
後ろからひれ伏して拝んでいるようなものですわ>

大寺ということころに餓鬼の像があったのでしょうか。まぁ、あったんでしょう。そ
れは恐らくこういう生き方をしてると餓鬼道に落ちて、このようになってしまうのだ
よ、と諭すためのものであったのでしょう。本来何かしてくれるものではない。何か
してもらおうと思ったら、普通は御本尊の如来像とか観音像とかを正面から拝むで
しょう。ところがその餓鬼の像に、しかも後ろから拝む、というのですね。これはも
う、役に立たないバカなことをしているわけです。私はあなたとの契りを信じてこれ
まで恋焦がれてきたけれど、それはほんとにバカなことだったわ、と強烈なパンチを
浴びせているのですね。

そんなにひどいことを言っても、やはり一向に家持の心が動くことはなかったようで
す。笠女郎はもう殆どあきらめの境地になったようです。美しい歌があります。

朝ごとに わが見る屋戸(やど)の
瞿麦(なでしこ)が 花にも君は
ありこせぬかも(1616)

<毎朝私が見る家の庭先の
なでしこの花ででもあってくれたらいいなぁ
愛しいあなたが>

そうしたら、もう会えなくても、いつも見ていることができるのに、というのです
ね。そして結局は再会できぬまま、女郎は田舎へ帰ることになり、最初に紹介した歌
となるわけですね。

さて、この恋はどのくらい続いたものなのでしょう。初期の、「水鳥の鴨の羽の色の
……」というのが天平5年(733年)の頃の歌だそうです。それで他の歌はわからな
いのですが、載っている前後の歌などから、最大下って天平17年(745年)位なので
すね。とすると十年以上も恋し続けたのでしょうか。そして十年以上も無視され続け
たのでしょうか。

家持は何故無視したのか。天平5年というと、家持16 歳の時ですね。まだ家持が歌
を書き始めた頃で、そんなにうまく返歌できなかったからでしょうか。いや、違うと
思いますね。16歳、16歳と考えていって、私が思いついたのは、笠女郎年上説、で
す。ご紹介したどの歌をとっても知的で大人びた感じがありますよね。同い年とか、
年下、例えば13歳の少女が書いた歌とは思えないですね。多分、この時18歳、20歳、
いや、或いは24歳だったんじゃないでしょうか、笠女郎は。その人が16歳の家持に惚
れ込んでしまった。で、機会があって、恐らくは女郎リードで共寝をしたのでしょう。
その年上の人リードの関係に、ヤバイとかマズイとか思って逃げてたんじゃないでしょ
うか、家持は。笠女郎のことは、何一つ文献が残ってませんから、この人の年齢のこ
とも、返歌がもらえなかった、あるいは少なくとも『万葉集』に載せられたなかった
理由も、学者の方々は触れていないのですが、そこは恐いものなしの素人、勝手にそ
ういう風に想像してしまいました。

いずれにしても、相手からの反応がなくても、振られても振られても自分の溢れんば
かりの気持ちを様々に表現し続けた笠女郎の歌には、いえ、その生き方には僕らが見
習うべきものは多いと思うのです。今回取り上げたのは全29首のうち19首ですが、他
にも素晴らしい歌はありますので、是非一度ご覧になってみて下さい。

それでは長くなりましたので、今日はこの辺で。次回からいよいよ「禁断の恋」につ
いて見ていきます。お楽しみに。

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番外編第九回いかがでしたか?

「恋歌」番外編は第一、第三月曜日発行です。


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2002.8.12 「恋歌」番外編第九回発行号


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