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          * * *番外編 第四回 * * *

皆様こんにちわ。いかがお過ごしでしょうか?
紫陽花の花の色が、曇りがちな心に映える日々ですね


「恋歌」番外編4回目は、天皇のラブソング です。
天上人の溢れるような恋心の表現に、いざなみといざなぎが交わって生まれたという
日本国、日本人のあり方が現れているようです。ロマンチックな「恋歌」をどうぞお
楽しみください。


第4回 天皇のラブソング

春過ぎて 夏来(きた)るらし
白栲(しろたへ)の 衣乾(ほ)したり
天の香具山

この歌はご存じでしょう。『百人一首』の二番目に、ちょっと新古今風にアレンジし
て選ばれている持統天皇の歌ですね。

<春が過ぎて 夏が来たらしい
白い布の 衣が干してあるよ
あの天の香具山に>

夏の空の青、山の緑を背景に衣の白い色のコントラストが何とも鮮やかで、言葉もシ
ンプルで調子よく、『百人一首』でも『万葉集』でも人気No. 1を競う歌でしょう。
私も以前話しました飛鳥旅行の折に、持統天皇が宮廷を構えた藤原宮跡に立ち、香具
山を望みました。ちょうど五月の暑い時でしたから、持統天皇もここからこの景色を
見ていたのだろうか、と想像してワクワクしました。残念ながら香具山に白い衣を干
しているのは見られませんでしたが……。あ、因みに、「天の香具山」という位だか
ら、どんなに高い山かと想像される方も多いと思いますが、行くとびっくりする位低
い山です。山というより丘、丘というよりこんもりとした林、といった方が近いで
す。それでも古代の人には「天の」と形容させる位ですから、何か尋常ではないもの
を感じさせる山だったのでしょう。

飛鳥浄御原宮跡より香具山を望む

ところで、持統天皇という人はどういう人だったのでしょう。天智天皇の娘さんで、
天武天皇の奥さん、皇后だった人です。天武天皇は天智天皇の弟ですから、いわば叔
父さんに嫁いだことになりますね。

ここでちょっと歴史の復習をしておきましょう。天智天皇というのは前に話しました
ように、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)で、藤原(中臣)鎌足と共に、大化の
改新(645年)というクーデターによって、蘇我氏中心の時代を終わらせた人です。
一方、弟の天武天皇は、天皇になる前は大海人皇子(おおあまのおうじ)と言ってい
た人です。そう、壬申の乱の立て役者ですね。天智天皇には、大友皇子(おおともの
おうじ)という息子がおりまして、当然この可愛い息子に天皇の位を譲りたかった。
しかし大友皇子は、あまり出自のよろしくない奥さんとの間に生まれた子供で、皇太
子には相応しくないと思われていたわけです。一方、弟の大海人皇子には人望もあ
り、天智天皇はやむなく大海人皇子を皇太子にします。

さて、天智天皇は病がちとなり、死を予感します。大海人皇子に天皇譲位の話を持ち
かけますが、これは位を受けにのこのこ出ていったら殺される、と察した大海人皇子
は、自分は体も弱く、大友皇子という立派なご子息があるのだから、政治はそちらに
譲ったらよいのでは、自分は吉野の山に籠り、出家します、と返事して、実際に僧形
となって吉野の山に入ります。そのうち天智天皇はとうとうお亡くなりになり、大友
皇子が天皇の位を受け継ぎます。が、ここに吉野に籠もっていた大海人皇子は出陣、
一気に都のあった近江に攻め入り、大友皇子の御首(みしるし)を上げます。そして
飛鳥浄御原宮(あすかきよはらのみや)で天武天皇として即位される――これが壬申
の乱(672年)です。クーデターによって天智天皇が勝ち得たものは、同じくクーデ
ターによって奪われてしまったのです。

ところで、天武天皇には奥さんが何人もいて、従って皇子も何人もいました。天武天
皇が可愛がっていたのは、大田皇女との間に生まれた大津皇子(おおつのみこ)で、
この人に天皇の位を譲ろうと思っていたようです。が、後の持統天皇となるウ野皇女
(うののひめみこ)は面白くありません。我が子の草壁皇子を天皇にしたいのです。
天武天皇亡き後、大津皇子は謀反の罪を着せられ死罪となります(686年)。ここ
で、草壁皇子はまだ若かったので、母のウ野皇女が自ら天皇の仕事を引き継ぎ、四年
後の690年には正式に即位して持統天皇となり、政治を執ることになるのですが、皮
肉なことに、そうこうしているうちに草壁皇子も亡くなってしまうのです。持統天皇
はその草壁皇子の息子、つまり孫の軽皇子(かるのみこ)に期待をかけます。持統天
皇が位について十一年、軽皇子が十五歳となったのを機に持統天皇は軽皇子に位を譲
り、軽皇子は文武天皇として即位する(701年)……。

これが持統天皇を巡る人々のドラマです。何とも凄まじいものがあります。身内の血
で血を洗うような殺伐とした人間模様ですが、この天皇たちが実に人間的な恋の歌を
残しているのです。

まず、天武天皇ですが、大海人皇子と呼ばれていた時代、何とあの額田王(ぬかたの
おおきみ)と結婚して、十市皇女(とおちのひめみこ)という姫を生んでいます。と
ころが、中大兄皇子が天智天皇として即位し、近江を都とすると、額田王は天智天皇
の側室として後宮に呼ばれるわけです。大海人皇子はおもしろくなかったでしょう。
そんなある日、薬猟(くすりが)りが行われます。不老長寿の薬を作るために、蒲生
野(がもうの)という野原で、男は鹿の袋角を、女は薬草を取るという行事です。そ
の時の歌が巻題一の20〜21にあります。

まずは額田王の歌。

あかねさす
紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや 君が袖振る

当時、紫の染料を採るために、朝廷は紫草の栽培を行っていました。「標野」は、そ
の御領地であるというしるしをつけた野原」ということのようです。「野守」は「野
原を見張る番人」ということですが、ここはやはりこの薬猟りを主催して全体を見渡
している天智天皇のことでしょう。

<茜色を帯びた紫草の野原に行ったり 御領地の野に行ったりして
番人の天智天皇のお目にとまったりしないかしら
あなたが私の方に袖を振っているのを>

大海人皇子は、かつて奥さんだった額田王のことをまだ思っているんですね。それ
で、この行事の最中に額田王を見つけて、わざと目立つようにあっち行ったりこっち
行ったりして、額田王がそれと気づくと手を振ったりする――。額田王は天智天皇に
見つかりはしないかとヒヤヒヤしているわけですね。

これに大海人皇子は答えます。

紫草(むらさき)の
にほへる妹(いも)を 憎くあらば
人妻ゆゑに われ恋ひめやも

「にほふ」は、色や香りが漂ってくる様子で、美しいことをいいます。

<紫草のように美しいあなたを憎く思っているとしたら
どうして人妻であるのに 私はこんなにも恋い慕うことがありましょう>

今は人妻でも、やはりあなたのことを思う気持ちに変わりはない、ということでしょ
うか。

ところで、この額田王、天智天皇を恋う歌で、とても素晴らしいもの(巻第四、
488)を残しています。

君待つと わが恋ひをれば
わが屋戸(やど)の すだれ動かし
秋の風吹く

<あなたを待つとて恋しく思っていると
わが家のすだれを動かして
秋の風が吹くことよ>

これは、当時、風は人が来る前触れと思われていたからですね。あなたを恋しく思っ
ていると風が吹いてきた、ああ、あなたはもうすぐここにいらっしゃるのですね、と
いう歌です。この感覚、僕は非常に美しいと思うんです。

さて、大海人皇子に戻ります。壬申の乱後、天武天皇となり(672年)、飛鳥浄御原
宮を都とします。この時に、天武天皇には藤原鎌足の娘、五百重娘(いほへのいらつ
め)を奥さんの一人に迎えます。勿論、この時には既に後の持統天皇という皇后がい
るわけです。さて、五百重娘がある時、実家の藤原家へ帰った。その時に雪が降った
んですが、ここで二人は面白い歌を交わします(巻第二、103〜104)。

わが里に 大雪降れり
大原の 古(ふ)りにし里に
落(ふ)らまくは後(のち)

<私のいる宮には 大雪が降っているよ
お前のいる 大原の古びた田舎に降るのは
もう少し後のことだろうな>

当時の人にとって、雪は瑞兆だったようですね。だから雪が降ると嬉しい。これは多
分、今ここに雪が降っているから、そんな田舎に引っ込んでないで、早く帰っておい
で、というニュアンスだろうと僕は思っています。

ところが、五百重娘、自分の実家を「そんな田舎」とからかわれて、仕返しをしま
す。

わが岡の おかみに言ひて
落(ふ)らしめし 雪の摧(くだ)けし
其処(そこ)に散りけむ

<いえいえ この里の岡にある龍神様に言って
降らせた雪のかけらが
そちらに飛び散っただけのことでしょう>

繰り返しますが、雪は瑞兆ですから、多ければ多いほどいいわけですね。そこで、天
武天皇は「大雪」と言ったわけですが、五百重娘はそんなのこっちに降ったものの
「かけら」ですよ、と言い返しているわけです。因みに、宮廷と大原の里とは500
メートル位しか離れていないので、実際にはどっちも同じようなものだったと思いま
す。他愛もないやりとりですが、却ってこの二人の仲の良さ、心の通い合いのような
ものを感じます。

さて、その天武天皇も686年、お隠れになります。持統天皇は、天武天皇がまだ大海
人皇子と呼ばれていた頃、吉野に逃れた時に共に連れ添った人です。壬申の乱も共に
した人です。この激動の時代を共に生き、愛した人を失い、その悲しみはいかばかり
だったか。

やすみしし わご大君の
夕されば 見(め)し賜ふらし
明けくれば 問ひ賜ふらし
神岳(かむをか)の 山の黄葉(もみち)を
今日(けふ)もかも 問ひ給はまし
明日もかも 見(め)し賜はまし
その山を 振り放(さ)け見つつ
夕されば あやに悲しび
明けくれば うらさび暮らし
荒栲(あらたへ)の 衣(ころも)の袖は
乾(ふ)る時もなし

<この世をあまねく統治されるわが大君が
夕方になれば ご覧になられるらしい
夜が明けると 言葉をかけられるらしい
神の山の黄葉に
今日も 言葉をかけて下さい
明日も ご覧になって下さい
その山を 仰いで見ながら
夕方になると 心そぞろに悲しく
夜が明けても 心が萎えてしまって
荒い布でできた私の衣の袖は
涙に濡れ 乾く暇もない>

持統天皇の挽歌(巻第二、159)です。この後、持統天皇は自ら政治を行い、孫の軽
皇子を文武天皇として即位させます。時に西暦701年。この文武天皇の御代に大宝律
令が制定され、律令国家としての体制が固まっていきます。持統天皇は、共に生き、
共に戦った天武天皇が作ろうとした律令体制を、志を受け継ぎ、完成へと導いた人な
のでしょう。

現在、明日香村にあるこんもりとした丘に天武天皇と持統天皇は一緒に葬られていま
す。あたかも、いつも二人一緒に力を合わせて、新しい時代を築いたのだとでも言う
ように……。

天武天皇と持統天皇が眠る檜隈大内陵

次回は「悲しみの磐姫」と題して送ります。お楽しみに。


※持統天皇のお名前のウ野皇女(うののひめみこ)の「ウ」の文字は、へんが
「盧」、
つくりが「鳥」の漢字です。JIS第2水準までの文字に含まれていないため、ここでは
カタカナで表記させて戴きましたことをお断りします。

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番外編第四回いかがでしたか?

「恋歌」番外編は第一、第三月曜日発行です。


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2002.6.3 「恋歌」番外編第4回発行号


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