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    * * * 番外編「男と女の古事記伝」第12回(最終回) * * *
              2004.1.22

こんにちは。
東京でもこの冬初の雪が降り、寒い日が続いておりますが、
みなさん、お元気にお過ごしですか?

さて、8月より隔週でお届けして参りました
「恋歌」番外編「男と女の古事記伝」、
いよいよ最後の配信となりました。

『古事記』に描かれた男女の姿、
それは現代に生きる私たちに何を語りかけているのでしょうか。
タンゴ黒猫が連載の間感じてきたことを綴ります。

どうぞご賞味下さい。。。


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   第12回 男は男に、女は女に(最終回)


さて、半年にわたって連載してきました『男と女の古事記伝』ですが、僕が『古事記』
に何を感じながらこの原稿を書いてきたかをまとめてお話しながら、この連載を締め
くくりたいと思います。

『古事記』にはいろいろな読み方があると思います。歴史書や文学書としてはもちろ
んのことですが、今回は特に、そこには古代日本の男女のあり方が反映されているの
ではないか、そしてそこには、男女のことも含めた人間関係、ひいては社会全体がお
かしくなってしまっている現代に生きる私たちが学ぶべき、あるいは取り戻すべき何
かがあるのではないか、という視点から読んでいくことにしました。

そのため、歴史的な考察を加えると、現在では事実ではないとわかっていることでも、
敢て『古事記』に表現されているままに受け取って読んでいく、という方針をとりま
した。『古事記』には歴史の改竄があったり、或いは神話ですから何かの象徴であっ
たりと、そこから歴史的事実を明らかにしていく作業はそれ自体魅力的ですが、これ
については多くの専門家たちが夥しい数の本を書いておられますので、そちらにお任
せすることとして、あくまでもテキストに表現されたものの中から男女のあり方に関
わる何かを読み取っていくことにしたのです。

そうした視点から『古事記』を読んでいって感じたのは、そこには、やはり、現在ま
で長いこと続いてきた男性中心主義とは異なり、女性が尊敬されていた、寧ろ女性優
位の関係があった、ということです。神功皇后のところでも話しましたが、巫女−審
神者(さにわ)、姉−弟という、女性がリードしながら、しかも男女が一致協力して
事に当る関係が理想的とされていた、ということです。このことは、冒頭のイザナギ、
イザナミの物語にもすぐに表れています。天の御柱を廻る時、最初に声をかけ、リー
ドしたのは女性のイザナミの方でした。この2柱の神様は同時に現れたとされていま
すが、やはりイザナミが姉、イザナギが弟のような感じがしています。

尤も、ここで生まれた子供は「ヒルコ」だったので葦舟に入れて流した、それは女性
が先に声をかけたのがよくなかったのだ、という説明がつき、大陸の影響で男性優位
の考え方が入ってきているのと葛藤している様です。ちなみに「ヒルコ」は「蛭子」
という漢字が当てられているので、きっと奇形のことだろうと一般に言われています
が、そうではなかろう、と僕は思っています。これもあくまで勝手読みですが、イザ
ナギ、イザナミから生まれ、最もそのリーダー格となった神様は言うまでもなくアマ
テラスですが、このアマテラスは「ヒルメムチ」という名前を持っています。最後の
「ムチ」は貴人を表す言葉ですから(例えば「オオナムチ」もそう)、本体は「ヒル
メ」となり、これはつまり「日の女」、「太陽の娘」という意味でしょう。とすれば、
「ヒルコ」はそれに対応して「日の子」、「太陽の子」という意味の男子であったこ
とが想像できます。そう、僕はここに、アマテラスの上に、長男がいたのではないか、
その長男は国の指導者としては不適格であったか、或いはそもそも男であったこと自
体が不適格とされ、国を出された、ということなのではないか、と想像するのです。

僕のこの想像の背景にあるのは2つのこと、一つは江戸時代の商家の跡継ぎの話です。
商人の家では長男がいても、跡を取らせたのは娘の方でした。何故かというと、商家
が続くためには、代々、経営者として優秀な人物が継がなければ、家はあっという間
に潰れてしまいます。しかも優秀な旦那の息子だからと言って必ずしも優秀な経営者
に育つとは限りません。そこで、財産の相続権は娘に持たせ、店で働く番頭たちの中
から最も優秀なものを婿として迎え、跡を取らせたのです。それでは、長男はどうなっ
たか? 長男には一生遊んで暮らせるだけのお金を与え、自由にさせたそうです。家
に残るものあり、家を出るものあり、よく時代劇などで商家の若旦那というと、人は
いいけどどこか頭悪そうで、吉原の芸者に入れ込んでる、なんて描かれ方されますけ
ど、実際にはそういう背景があってのことだったのです。

ヒルコを巡る僕の想像の今一つの理由は、高句麗の伝説です。高句麗は、天をこの地
に実現することを理念として建国され、王とは天の声がわかる存在であり、また、一
人でも不幸な民がいれば王はその資格を失ったと言われています。従って、高句麗で
は王は世襲ではなく、常に王に相応しい人物が王となっていたのです。僕は、このこ
とは独り高句麗に限らず、世界の多くの国で、王と呼ばれる人々は本来そういう存在
だったのではないか、と思っています。まして、高句麗はじめ朝鮮半島の国々と人の
出入りが激しかった日本において、天、あるいは自然や宇宙のことがわかり、民を幸
せにできる人物こそ王なり統治者として相応しいと考えられていたとしても不思議で
はないと思うのです。恐らく、そうではなかったイザナギとイザナミの長男は、それ
故に国を追われたか、『古事記』にある通り流されてしまい、アマテラスが統治者と
して選ばれたのでしょう。

天の御柱とヒルコを巡る物語はそうした日本古来の伝統と、新しく入って来た大陸的
価値観とのせめぎ合いの中で編集されていったように思います。その大陸的価値観が
よりはっきりしてくるのは『古事記』から20年後に編纂された『日本書紀』において
です。亡き母の国に行くことを父イザナギに許されなかったスサノオが、それならば
姉にわかってもらい許してもらおうとアマテラスの許を訪れますが、国を乱しに来た
のではないかと疑うアマテラスに対し、スサノオは二心なきことを証すために、天の
安の河の誓(うけ)いというのを行います。この時、『古事記』では、スサノオの剣
から3人の姫が、アマテラスの玉からは5人の男子が生まれたとあります。スサノオ
のものから女性が生まれたことは、スサノオの心が清いからである、と証されたわけ
です。ところが『日本書紀』では、スサノオから生まれたのは5人の男子の方であり、
その理由はスサノオの心が清いからである、とするわけです。ここでは既に女性が清
らかな存在から穢れの存在へと変わってしまっているのです。そして話の内容そのも
のが変えられてしまっているのです。

『古事記』や『日本書紀』が編纂された時代の日本は、制度的なものをどんどん固め
ていった時期に当ります。その制度的なものが固まっていき、政治も官僚的なものと
なっていき、女性を卑しめ、男性中心的な世の中へと移っていく中で、『古事記』と
いう形で、その中に男と女とがそれぞれの能力、素質を活かして、互いに補い合い、
共に事に当っていった姿を垣間見ることができるというのは、日本人にとっては勿論、
世界にとっても幸せなことであろうと思います。何故なら、例えば高群逸枝さんによ
れば、ヨーロッパに於いては、ホメロスまで遡っても男性中心主義、家父長制が既に
確立しているのです。ホメロスまで、ということは、ギリシャ最初の文学ですから、
つまりヨーロッパでは、文字として記録された、という意味での歴史が始まって以来、
男性中心主義が支配していたことになるわけです。女性が太陽だったり国のリーダー
だったりした記憶が西欧にはないのですね。一連の女性解放運動、ウーマン・リブや
男女平等の権利を求める運動は、こうした歴史を背景に生まれてきたわけですが、し
かし、真に男と女が対等だったという経験のないところで、こうした運動は一体どう
いう状態を目指せばいいのか、そのモデルのないままに進んできたように思います。
この時、日本にはひとつのモデルがあったわけです。私たちはそれを『古事記』の中
に見い出すことができるわけです。イザナギ、イザナミの国生みの物語は、この連載
のはじめに書いたように男と女が真に幸せであった生き方のモデルであり、その子孫
である私たちにはそうした生き方を取り戻せる可能性が残されているのではないでしょ
うか。

女性解放運動で思い出しましたが、私たちの日本を含め世界的に男性中心主義が長い
間支配してきた中で、女性の権利を向上させようという運動は世界規模で展開されて
きたわけで、その具体的成果の一つとして日本でも1985年に男女雇用機会均等法が、
1999年に男女共同参画社会基本法が制定されるといった形で法制度が整備されるよう
になりました。特に男女雇用機会均等法については女性の職場進出に大きく貢献した
と言われており、確かに女性の就職もその待遇も、以前に比べるとずっと良くなった
のかもしれません。しかし、本当にそれで男女平等になって、女性はより幸せになっ
たのだろうかという疑問も同時に湧くのです。30代の働く女性で、女性としての機能
に何らかの障害を訴える女性は年々増えているようです。

このことは、女性から、「女であること」が奪われているという状況を示しているの
ではないかと思います。それは直ちにつまり女に仕事は向かないのだ、という反動的
な考えを支持するものではありません。この連載で繰り返してきたように、女性は自
然のこと、生命のことを敏感にキャッチして生きている存在です。その女性がある職
場環境で働いていて病気になってしまうというのは、その職場環境が実は自然や生命
と融合しないもの、或いは自然や生命を傷つけるものであるかもしれない、というこ
とです。そういうことに鈍い男だから働いてこれたのであって、本当はそうした男た
ちも、大いに自分たちの生命を傷つけ、実は能力を低下させながら働いてきたかもし
れないのです。

私が今言う職場環境とはあらゆるものを含みます、人間関係や組織、制度はもちろん
のこと、会社の建物の設計、使われている建材、素材、毎日使うコピー機やパソコン
や細々とした文具まで全てを見直し、女性が生き生きと働けるようなものに変えてい
く必要があるのではないかと考えるのです。そして女性が生き生きと輝いて仕事でき
ていけば、男だって輝かないではいられないですよね。

男女雇用機会均等法の話から職場環境の話になりましたが、社会全体を見渡す時、女
性に限らず、お年寄りや子供、身体の不自由な方々など、弱い者を犠牲にするしくみ
の上に成り立っているものが余りに多かったのではないでしょうか。かつて経済学者
のレスター・サローは『ゼロ・サム社会』において、誰かの利益は別の誰かの不利益
になる、従って社会全体の利益の総和はゼロになるのだとし、従って誰の利益を優先
するかは、多数決とお金によって支配されるのが資本主義なのであると論じました。
しかし、最早世界は、そのような誰かの犠牲の上に立つことに耐えられなくなってい
ます。こうした時に、先に述べた高句麗の王に受け継がれた精神、一人でも不幸な民
がいれば、王はその資格を失うというのは、つまりどんな犠牲も払わない、全ての人
を幸福にする社会をつくるということが、今まさに求められているのではないでしょ
うか。そしてそのためには、その高句麗でも日本でも重んじられた天とひとつで生き
るということ、現代風に言えば自然や宇宙の法則に反しない生き方が求められている
のではないでしょうか。

それには、私たち一人一人が持って生まれた本来の素質や能力を生かして生きるとい
うことが重要になってくると思います。それは、自分というものを肯定的に生きると
いうことでもあります。長い間男性中心の社会が続いた影響で、「自分はどうして女
に生まれたんだろう、男に生まれればよかった」と思う女性が多いと聞きます。男は
「女に生まれればよかった」と思う人は少ないようですが、実はかく言う私は「どう
して男に生まれたんだろう」と嘆いたことのある一人です。しかし、女には女にしか
できないこと、男には男にしかできないことがあります。そしてある人にはその人に
しかできないこと、世界に60億の人がいても、その人にしかできないことというのが
あります。私たち一人一人が男に生まれ、女に生まれ、そしてある素質や能力を持っ
て今ここに生きているということ、それは人類の未来に対して、何という大きな可能
性を秘めていることだろうと思うのです。

そう、今こそ男は男に、女は女になり、そして共に新しい未来を創る時なのではない
でしょうか。イザナギとイザナミの「成り成りて成り合はざる処」「成り成りて成り
余れる処」というのは単に男女の身体的特徴を記したものに留まらないと僕は考えた
いと思います。異質でありながらひとつになれる存在、そしてひとつとなった時に無
から有を産み出し、1+1が3にも4にも、いえ無限大へと広がっていく、それが男
と女の世界なのではないでしょうか。イザナギとイザナミの神話は、そうした幸せな
男女が国を造っていったという物語であると思います。

一度起こった事は必ずまた起すことができる――。あの幸せな物語の続きを、そして
幸せな国造りの続きを描いていくことができるのは他でもない、イザナギとイザナミ
の子孫である私たち一人一人なのです。

そんな出会いが、そんな恋が皆さんに生まれることを願いつつ、この連載を締めくく
りたいと思います。長い間のご愛読、ありがとうございました。


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番外編「男と女の古事記伝」の連載は今回で終了となりますが、
折しも、タンゴ黒猫の自宅より、かつて万葉の地を訪ねた時の写真が発見され、
これら一連の写真をバックナンバーのページにアップしました。


●第1回「今も昔も……」
http://www.koiuta.jp/back/special1.html

●第4回「天皇のラブソング」
http://www.koiuta.jp/back/special4.html

●第5回「悲しみの磐姫」
http://www.koiuta.jp/back/special5.html

●第12回「人への愛、国への愛」
http://www.koiuta.jp/back/special12.html


書籍版にも掲載されなかったこれらの写真、
「恋歌」ホームページのみのオリジナル企画です。
どうぞお楽しみ下さい。


*' *' *' 単行本「恋歌」情報 *' *' *'

「恋歌」が本になりました。
書店にてご購入またはご注文下されば幸いです。

●タイトル:恋歌(れんか)
●著者:恋歌編集部
●発行:新風舎
●本体価格:1,800円
●ISBN:4-7974-2794-9

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2004.1.22 「恋歌」番外編第12回発行号


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