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       * * * 番外編「男と女の古事記伝」第3回 * * *
              2003.9.11 

  皆様いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 「恋歌」では恋の表現を通して、私たちが忘れてしまった日本古来の男女のあり方
や日本人の魂を取り戻し、一人一人は勿論、日本全体も元気になればとの願いからこ
のメールマガジンを配信しています。

 さて、隔週でお届けしておりますタンゴ黒猫の『男と女の古事記伝』、今日はその
第3回、「元始、女性は太陽であった」と題しまして、古代の日本において女性とは
どのような存在であったのかを見ていきます。

 日本の神話ではこの世を司る太陽の神様はアマテラスオオミカミであり、また現実
にもヒミコという女性の王が百余国と言われた古代の日本を統治していました。この
ような状況は、ヨーロッパやインドの事情とは異なります。そして、そのような古代
日本の女性観こそ、もしかしたら現代を先取りしていたかもしれない。。。どうぞご
賞味下さい。


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   第3回 元始、女性は太陽であった


元始、女性は太陽であった――平塚らいてうさんのあまりに有名な『青鞜』刊行の辞
の冒頭ですね。正に女性が太陽であったこと、『古事記』に述べられていることはみ
なさんもご存じでしょう。

黄泉の国を逃れてきたイザナギノミコトは穢れを祓うために着ている物を全て脱ぎ、
川で禊(みそぎ)をします。この時左の目を洗って生まれたのがアマテラスオオミカ
ミ、右の目を洗って生まれたのがツクヨミノミコト、そして鼻を洗って生まれたのが
スサノオノミコトです。ここでは太陽の神様は女性、月の神様は男性となっているわ
けですね。

「月」というと「女性」を連想するのはもしかして欧米の影響が大きいのかもしれな
いですね。ローマ神話では太陽の神はアポロンという男の神様、月はルナという女の
神様ですが、月が女性と結びつくのは女性には月のものがあるからでしょう。それで
この月のものが訪れた時の女性が常とは違う状態になってしまうので、文字通りには
「月的」を表す "lunatic" が「狂気」を意味したり、「子宮」を表す "hysteria"
が「ヒステリー」を意味するようになったりするわけです。女性に月のものが訪れる
ようになったのは、進化の過程で海を生活の場とし、潮の干満と身体が連動していっ
たからだということがエレイン・モーガンさんの『女の由来』にあります。

しかし、「太陽」はあらゆる生命を生み出すもとであり、生命を生み出すということ
であれば、男性よりも女性にこそその性格が投影されるのも自然なことではないでしょ
うか。古代の日本においては『古事記』に見られるようにそうでした。「太陽」は古
代の日本語では「日(ひ)」であり、その太陽の持つすぐれた力に対する信仰から、
全ての活力の源となる超自然的な力を「霊(ひ)」と呼んだわけで、所謂皇太子が天
皇の位を継ぐことを「日嗣(ひつぎ)」といい、皇太子と書いて「ひつぎのみこ」と
呼ぶのは正に天皇とはそのような天の超自然的な力を受け継ぐものであったことを示
しています。天皇が崩御され、後に残された後継者たちの中にそのような存在がいな
かった場合、日嗣は問題となったのですが、西洋で狂気とされた女性の尋常でない有
様、そして新しい生命を産み出すというその姿は、日本では却ってこの世的でない、
天のことがわかる超自然的な存在として映り、太陽神は女性、そして後に天皇となっ
ていく存在も卑弥呼に見られるように女性であったと思われます。従って女性は聖な
る存在であり、これは女性を穢れた存在としたインドの仏教とは全く対立する立場と
言えます。(女人禁制とか女性を不浄とする考えは明らかに後から入って来た仏教の
影響です。)大乗仏典の『法華経』提婆達多品第十二に驚くべき記述があります。サー
ガラ竜王の娘にシャーリ=プトラが女の身は穢れているので成仏はできないと言うの
ですが、その竜王の娘が世尊に三千大世界に価するという宝珠を献上すると、この女
性は何と男となって成仏するのです。(漢訳では「變成男子」とのみありますが、サ
ンスクリット原典では「彼女の女性の性器が消えて男子の性器が生じ」(岩本裕訳)
となっています。)女性は善行を積んでも女性の身のまま成仏することはできず、一
旦男とならねばならなかった、それが当時のインドの女性観だったのです。そのイン
ドでは男である観音様は日本では女性になってしまいました。アマテラスの話に戻る
と、暴れ回るスサノオがアマテラスの許を訪れた時、その二心ないことを証明すると
て身につけていた剣をアマテラスに渡すと、この剣をもとに三人の姫が生れます。ス
サノオは「女の子が生まれたことが自分の心が清い証である」と言って喜ぶのですか
ら、ここでも女性が聖なる存在であることが示されています。

さて、先程卑弥呼の名前を出してしまいましたが、卑弥呼はアマテラスとどうしても
ダブってしまう存在ですね。「卑弥呼」という文字は魏の国の人が当てた字でしょう
し、大体当時中国の人が周辺諸国のことを記述する場合、悪い字を選んで使いますね。
「ヒミコ」とは恐らく後の『万葉集』などでよく現れる表現、「ひのみこ」=「日の
巫女」であったろうかと僕は思うのです。アマテラスについては後に天の石屋戸(い
わやと)に隠れ、「これによりて常夜(とこよ)往(ゆ)きき。ここに萬(よろづ)
の神の声は、さ蝿(ばへ)なす満ち、萬(よろづ)の妖(わざわひ)悉に発(おこ)
りき」、つまり世の中が暗くなり、各氏族が蝿のようにうるさく乱れ、ありとあらゆ
る災難が国を襲った、ということでしょう。「隠れる」が神や天皇が亡くなることを
表すことを考えれば、ここで一旦アマテラスは死に、そしてアマテラスが再び石屋戸
から現れるとは、アマテラスと同じような存在が再び現れたことを意味しているので
はないでしょうか。とすれば、「魏志倭人伝」に「卑弥呼以て死す……更に男王立て
しも国中服せず。更(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱
与年十三なるを立てて王となし、国中遂に定まる」とあるのと対応していると思いま
す。

男から見ると女の人というのは時に突拍子もないことを言うように思えるのですね。
男にしてみれば女は全く論理性に欠ける存在である、と映るのです。しかし……。こ
んなことはないでしょうか。私の周りにも、実はそういう女性が多いのですが、例え
ばこんな会話です。

女「AってZよね!」
男「な、なに!? ちょっと待った。Aってことはね、Bってことになるもんなんだ
よ。」(女が言うことにこの人ものを知らないな、とやや軽くみながらたしなめるよ
うに。)
女「うーん。」(あんまり納得してない。)
男「するとね、BだったらCなんだ。」
女「うーん。」
男「で、CだとDとなり……。」
――中略――
男「……というわけで、YはZとなるわけで、ということはAという出発点からこの
Zまで来ることができるんだよ。(したり顔で、しかしやがて顔が曇る。)あれ?」
女「それってあたしが最初に言ったことと同じじゃない!」

男の人も女の人も、こういう会話、どこかで、いやもしかしたら毎日経験されている
んじゃないでしょうか。どうも、男が帰納的にひとつひとつ積み重ねないでは前に進
めないようなことを、女の人はポーンと飛び越して、その最終的結果が見えてしまっ
ているように思えるのです。その途中なんてどうでもいい、結果はこうよ、未来はこ
うなるのよ、と言っているようです。まるで予言者のようですね。女性のこうした能
力というか感性とというか素質は、日本ではやはり時代というか未来というか、天の
意志がわかるものであると考えられ、そして女性が王であったり天皇であったりした
のでしょう。ただ、その飛躍の大きさはその支配下の民からすれば日常の生活に断絶
をもたらすものであり、その女性が示す将来のクニのあり方を目指しつつ、しかし同
時に現実の生活や仕事に断絶をもたらさないよう、実際的に変革を行っていけるよう、
具体的施策を行ったのがその女性を補佐する男性であったと思われます。「魏志倭人
伝」に「男弟あり、佐(たす)けて国を治む」とあるのはそのような存在であったで
しょう。

こうした結論や未来が先にわかってしまうという女性の素質を今予言者のようだと言
いましたがそうですね、聖書に出てくる預言者たちや科学的発見をした天才たち、そ
う、芸術家とか創造者とか、天才と呼ばれる人たちに共通する素質ですね。科学的発
見をした天才たちは、その発見を先に直観し、あとで理屈を組み立てていったと言わ
れます。ニュートンは林檎が木から落ちるのを見なかったら万有引力の法則を見つけ
られなかったということはないのです。万有引力というものを最初に直観し、その説
明を林檎に見たに過ぎないのです。従って林檎でなくても、他のものでもその説明の
ためにはよかったと思われます。

ここで冒頭に掲げた平塚らいてうさんの文章に戻りましょう。この文章はこの後こう
続きます。「元始、女性は太陽であった。真正(しんせい)の人であった。今、女性
は月である。他に依(よ)って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白(あお
じろ)い顔の月である。」ここで月の比喩も出てきますが、らいてうさんはかつては
女が太陽で男が月だったが、今や男が太陽で女は月となった、というような単純な対
立図式で語っているのではありません。「太陽」と「月」の間にある「真正の人であっ
た。」という短い一文を見落としてはならなりません。この後の文章でらいてうさん
は「真正の人とは――」という問を繰り返します。そして「天才とは神秘そのもので
ある。真正の人である。天才は男性にあらず、女性にあらず。」と言います。更に
「自(みず)からの溢(あふ)れる光輝と、温熱によって全世界を照覧し、万物を成
育する太陽は天才なるかな。真正の人なるかな。」と言います。真の人間とは自ら輝
き、他を照らし、他の誰にも真似のできない天才を発揮する存在であると言っている
ようです。

そう、人は誰しも、本来そのような、天才として、世界を照らす存在として生まれて
きたはずです。どんな人も無駄にこの世に生まれてきてはいない。他の誰かと交換可
能な存在として生まれてきてはいない。このことを『青鞜』の四号(1911年12月刊)
の「編輯室より」に木内錠(きうちてい)さんが書いています。「生まれて来るまで
はああもこうも、美しかれ、幸あれ、才あれと願わるる世のなべての母心に等しく様々
な望みを属(しょく)した子供も、生れて見ればなかなか宙に画(えが)いた空想の
ように美しくは行かぬと同様、この小供もやはり世間一般の御多分に洩(も)れず、
飴(あめ)をしゃぶらせられると泣(なき)やみ、風車(かざぐるま)を見せられる
と笑ったりする平凡一様のものとなってただ肉体のみスクスクと延び立って行くので
ございましょうか。何も特色のない――私は何よりこれを恐れます。万一(もし)生
れて来なかったと同様であるならば、何の甲斐(かい)をもなすのでなければ――母
たちは何を物数奇(ものずき)に苦しんでこれを生む苦痛を忍んだでありましょうか?


「元始、女性は太陽であった」というらいてうさんの文章は、日本の女性解放運動の
先駆けとなったスローガンとして知られていますが、今一度読み返してみると、それ
は単に男性支配の社会に異を唱え、女性の権利を主張するような浅薄な内容ではあり
ません。男と言わず女と言わず、本来人間とはどのように生きてきたか、そして生き
ていくべきかの方向を示したものであり、書かれてから100年近く経ち、その間女性
の権利を含め、様々な法律が整備され、社会はより自由で個人を重視するように変わっ
てきているにも拘わらず、未だにその普遍性を失わない文章であり、否、それどころ
か、らいてうさんが書いたような状況は今以て尚実現されていないと言えます。

女性を太陽とし、聖なる存在とした日本。その日本では『古事記』の冒頭で、男も女
も自ら輝ける存在であり、そして互いに欠けたり余ったりしているところのある異質
な存在であるからこそひとつとなり、更に天とひとつとなり、輝ける子供たちを生み、
この国を創っていったことを明らかにしています。その子孫である私たちは、今こそ、
男も、女も、一人一人が輝ける天才、太陽となる時を迎えているのではないでしょう
か。


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「恋歌」番外編は隔週木曜日に発行します。
次回をどうぞお楽しみに。。。。


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2003.9.11 「恋歌」番外編第3回発行号


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