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     * * *番外編 第十二回 (最終回)* * *


せっかくの仲秋の名月も、なごりの雨となりました
みなさまはいかがお過ごしでしょうか、、


いよいよ感動の最終回となりました。
黒猫タンゴさん楽しい連載をありがとうございました。

第12回 人への愛、国への愛

日本というたぐい希なる男女の関係が存在した国
自然と共に生き、平和な営みがあった国

この国のことをもっと誇りにしたいと心から感じます。
この国の持っている文化、魂を取り戻していくことが
きっと未来にむかうことなのですね。

それでは最終回、ごゆっくりお楽しみ下さい。


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   第12回 人への愛、国への愛

先日、東京都美術館で行われている「飛鳥・藤原京展」に、私の知人で漫画家の森生
文乃さんと一緒に行って参りました。この稿を連載している時に、何とタイムリーな
企画! と、それぞれの取材を兼ねての鑑賞と相なりました。やはり、自分とは違う
職業の人と行くのはなかなか楽しいもので、森生さんは大化の改新で中大兄皇子が蘇
我入鹿の首を刎ねているシーンを描いた絵巻の描写に感激(?)したり、柱の形や甍
のデザインに発見があったりと、なかなか自分一人で行ったのでは気付かないところ
に気付かせて頂き、大変楽しかったのですね。

展覧会では藤原京の模型が飾ってあったのですが、そうそう、あれが香久山、あれが
耳成、と二人とも飛鳥地方には旅行したことがあるので模型を見ながらその時のこと
を思い出していたのですが、森生さんが突然、

「山って艶っぽいよねぇ。」

と言うのですね。私は、そんなこと思ったこともないので、最初きょとんとしてしま
いましたが、それで思い出したのは、やっぱり天智天皇のあの歌です。

香具山(かぐやま)は 畝火(うねび)ををしと
耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそいき
神代(かみよ)より かくにあるらし
古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ
うつせみも 嬬(つま)を
あらそふらしき

<香久山は 畝傍山を男らしいとして
恋仲にあった耳成山と諍いをした
神代からこうであるらしい
昔もそうだからこそ
現実にも愛する人を
争うらしい>

これは、額田王をめぐる天智天皇と天武天皇(当時は大海人皇子)との争い、または
天智天皇の同腹の妹である間人皇女(はしひとのひめみこ)をめぐる天智天皇(当時
は中大兄皇子)と孝徳天皇の争いを歌ったものか、といろいろに想像されている歌な
のです。

甘橿丘より飛鳥地方を望む――左手に畝傍山、その左奥に薄く二上山、そして画面右手奥が耳成山

大和三山と言いますけど、いずれも低い山ですよね。寧ろその背後にある山の方が高
い。「天の」と形容される香久山なんて、その高さたったの148メートル。その形も
殆ど平らで山らしくないので、何で「天の香久山」なんだろうと思うのですけれど、
だけど、万葉の時代の人たちは、こうした、高い山の端山、それも平らな山に神が降
りると信じていたようなのですね。それでこの山でいろいろと祭事が行われたらしい
のです。だからこの山には神の存在を感じていたのでしょうね。

いえ、もともと、例えば、『古事記』などを見ても、イザナギとイザナミの国生みの
神話なんて、正に子供を生むように日本列島の各島を生んでいき、その島々の表現も
人間的ですよね。山と言わず、川と言わず、昔の人たちにとっては、より「生きた」
存在だったのではないでしょうか。生きた存在であればこそ、そうした山に男や女を
感じるわけで、だからこそ、先に掲げた天智天皇のような歌が生まれてくるのでしょ
う。

そう、こんな歌もあります。

吾妹子(わぎもご)に わが恋ひ行けば
羨(とも)しくも 並(なら)び居(を)るかも
妹と背の山

<愛しいあなたを恋しいと思いながら山路を歩いていくと
ああ 何て羨ましいんだろう 見えてきたのは仲良く並ぶ
妹の山と背の山ではないか>

これは巻第七の1210、羈旅(たび)にして作れる歌のうちの一つです。紀ノ川に沿っ
て紀の国に行く途中、今の和歌山県伊都郡笠田町というところにこの妹山、背山はあ
るようです。遠く大和を離れ、いくつもの山を越えての旅に、この仲良く並ぶ山を見
る時、万葉の人たちはこの山に自分の愛する人のことを思ったのでしょう。

山を見て愛する人を思うと言えば、忘れてはならないのが大伯皇女(おおくのひめみ
こ)が、謀反の罪で死罪となり、二上山(ふたかみやま)に葬られた弟の大津皇子
(おおつのみこ)を偲んで歌った歌(巻第二、165)ですね。

うつそみの 人にあるわれや
明日(あす)よりは 二上山(ふたかみやま)を
弟世(いろせ)とわが見む

<現実の世に生きている人間である私は
明日からは二上山を
弟だと思って見ることにしよう>

やっぱり、山というのがただの山ではなくなるのですね。

私は、万葉の人たちというのは、山とか川とか、自分たちを取り囲む風土を本当に生
きたものとして愛していたのだと思うのですね。これはもう、私たちが自然は美しい
とか、自然の中では癒されるとかいうような、そんなものではないのです。生まれた
時から自分を育み、慈しむようにして存在する風土。それはある時は母であり、ある
時は恋人であったでしょう。人を愛するようにその風土を愛した、それが万葉の人た
ちの感覚だったのではないでしょうか。だからこそ、恋人への愛を表現する歌に、こ
うした風土が歌い込まれていくのです。例えば、巻第十三、3248の相聞歌です。

磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の国に
人多(さは)に 満ちてあれども
藤波の 思ひ纏(まつ)はり
若草の 思ひつきにし
君が目に 恋ひや明(あ)かさむ
長きこの夜を

<磯城島の日本の国に
人はたくさん満ちあふれているけれども
波うつ藤のように思いがまとわり
若草のように思いが離れずに
あなたの瞳を見たいと 恋焦がれて明かすのだろうか
この長い夜を>

「磯城島の日本の国に」なんて出だし、右翼か軍国主義か、と思われる方もいらっ
しゃ
るかもしれませんが、そうではないのですね。日本の国をやはり愛しいと、愛してい
る表現なのです。その愛する日本の国に人はたくさんいるのだけれど、自分にとって
同じく愛しいのはあなたしかいない、ということですね。そうそう、この歌の心は続
く反歌(3249)に表れています。

磯城島(しきしま)の 日本(やまと)の国に
人二人(ふたり) ありとし思(も)はば
何か嘆かむ

<磯城島の日本の国に
恋人が二人でもいると思うのなら
何でこうも嘆こうか>

自分が恋する人はこの広い日本に二人といない、あなた一人なのだ、だからこそ会え
ない今、こうして苦しんでいるのだ、という、うーん、よくわかりますな。

蜻蛉島(あきづしま) 日本(やまと)の国は
神(かむ)からと 言挙(ことあげ)せぬ国
然れども われは言挙す
天地(あめつち)の 神もいたくは
わが思(ふ) 心知らずや
行く影の 月も経行(へゆ)けば
玉かぎる 日もかさなり
思へかも 胸安からぬ
恋ふれかも 心の痛き
末つひに 君に逢はずは
わが命の 生(い)けらむ極(きはみ)
恋ひつつも われは渡らむ
真澄鏡(まそかがみ) 正目(ただめ)に君を
相見てばこそ わが恋止(や)まめ(3250)

<トンボが飛び交う豊かな島である日本の国は
神ながらに 言挙をしない国だ
それでも 私は敢えて言葉に出して言おう
天地の神も それほどは
私が思う 心の中を知らないのだろう
その光を変えながら月が移り
玉のように輝く日も重なっていくと
あなたを思うからでしょうか 胸が安らかではありません
あなたに恋しているからでしょうか 心が苦しいのです
このまま最後まであなたに逢うことができないのなら
私の命が生き続ける限り
あなたのことを恋い慕いながら 私は過ごしていきます
真澄鏡を見るように じかにあなたと相見えてこそ
私のこの苦しい恋心も止むでしょう>

ね、すごいでしょ。「蜻蛉島」「日本の国」「神から」「天地」と、まぁ、後の愛国
主義に利用されたような表現が並ぶので何事かと思うのですけれど、これが恋の苦し
みを訴えるラブソングなんですね。巻第十三の相聞歌はこうしたものが並んでいてお
もしろいのです。私も初め見た時は、天皇か国を称える歌なのかと思ったのですが、
よく見ていくと恋の歌であることに笑ってしまったのです。他にも「葦原(あしは
ら)
の 瑞穂(みずほ)の国は」、「天地(あめつち)の 神を祈りて」、「神風(かむ
かぜ)の 伊勢(いせ)の海の」といった出だしで始まる恋歌が並んでいます。

愛国心、というと、戦後の日本ではどうも軍国主義と結びついて考えられてしまうの
ですけれど、本当はそうではないのですね。国を愛する――国って何でしょうか。
今、
白川静さんの『字訓』を繙いてみると、「くに」とは、「一定の限られた地域の自然
と、そこに住む社会集団の生活態とを合わせていう」ものなのだそうです。一人の人
間を中心に考えた場合、それは生まれた時から自分を抱き、見守ってくれた自然、人
の全てなのですね。だから「くに」が愛すべき故郷を意味するようにもなるわけで
す。
そうした意味での「くに」を昔の人は大事にした。だから、かつては天皇が代ると都
のある場所も変わったわけですけど、それは単に、その天皇が生まれ育った、母方の
実家があるところが都となったに過ぎないのです。今の自分があるのは、その自分を
育ててくれた山や川といった自然の風土があり、周りの人々がいてくれたからです
ね。
こうした風土も人も愛するというのは、ごく当然のことであるように思います。人を
愛することも国を愛することも、昔の人にとっては同じものだったのですね。

今、私たちは人を愛することと国を愛することが別々になってはいないでしょうか。
人を愛するのは当然だが、国を愛するのは軍国主義につながるので良くないことだ、
というように。でも、その場合の「国」というのは、どうもこうした風土とは切り離
された、単なる権力体制のことを言っているように思います。いえ、それでもいいで
しょう。が、国が豊かでなければ私たち一人一人の幸福すら実現できないというのが
現実ではないでしょうか。自分の愛する人を幸せにしたいと思った時、どうしてもそ
れは国全体、世界全体の幸福、平和を実現しなければ成り立たないことのように思え
ます。これまでの価値観、体制が次々に崩れ去り、どこへ向かえばいいのか、何をす
ればいいのか、大きな転換期を迎えているこの日本にあって、今こそ私たち一人一人
がそれぞれの幸福、将来この国に生きていく子供たちの幸福を考え、この国のあり方
を考えなければいけないのではないでしょうか。

四方を海に囲まれ、二千年以上に亘って平和に生きてこれた私たち日本人にとって、
国が亡くなるという事は考えられないかもしれません。しかし、この国あっての日本
人だと思うのです。小松左京さんが『日本沈没』を書いた時、それは単なるパニック
小説ではなく、この日本列島がなくなったら、果たして日本人は生きていけるのか、
一体日本人とは何なのか、日本の文化とは何なのか、というのがテーマだったようで
す。

昔の人にとっては、人も自然も同じように愛しい存在、自分を育んでくれた国という
存在だったわけですね。だから、恋人に愛を表現するように、国への愛も表現したの
です。

最後に、国への愛と恋人への愛を同時に表現したような舒明天皇の歌(巻第一、2)
をご紹介します。

大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど
とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま)
登り立ち 国見(くにみ)をすれば
国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ
海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立つ立つ
うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま)
大和の国は

<大和には 多くの山があるけれども
とりわけて立派な装いをしている天の香久山に
登り立って 国見をすると
国土には炊煙があちこちに立ち上り
海には鴎があちこちに飛んでいる
美しい国だ トンボが飛び交う豊かな国
この大和は>

なんですけど、「山」を天智天皇や妹山、背山のように人のように感じていく
と……。
林秀彦さんが『「みだら」の構造』の中で風流訳として次のように解しておられま
す。
(改行筆者)

<この世にはたくさん女がいるが、
ここにいるのが香具子さん、
上に乗って見下ろせば、
女体は炎立ちたち、
女陰は汐の立ちたつ、
おいしい女ぞトンボが交尾しているいような(蜻蛉洲の意味)
国の女たちは>

えーっ! やり過ぎ! と思う向きもあるでしょうが、この位、人を愛することと国
を愛することが同じだったと私は思いますね。この稿の初めにお話した森生さんの
「山って艶っぽい」という言葉がわかるような気がして参りました。

しかし、こう読んでしまうと――。『万葉集』は、開巻最初に現れるのが雄略天皇の
ナンパの歌、二番目が舒明天皇のセックスの歌、ということになってしまうわけで、
うーん、やっぱり天皇以下自由に恋を楽しんでいた時代を象徴しているように思いま
すね。

さて、12回にわたって『万葉集』に見られる様々な恋の表現や恋のあり方を見て参り
ましたがいかがでしたでしょうか。今回『万葉集』を読み直しながらいつも感じずに
はいられなかったのは、命を賭けて恋をしたこの時代の人たちの生きざまと、あまり
に恋するということが不自由になってしまった現代に生きる自分(達)のことでし
た。
激しい恋を重ねた人たちは、同時に律令国家としての体制を築いていった人たちでも
あったわけです。何もかもが行き詰まってしまったこの現代の日本にとって、その突
破口は豊かな男女関係であるかもしれません。そんな豊かな男女関係が、この拙稿を
読んで頂いたみなさんの中から生まれてくれば、せめてそのヒントにでもなれば、こ
れほど嬉しいことはありません。

最後に、「おもしろい」「これなら古典でも読む気になる」など、様々なご感想を頂
いた皆さんにこの場を借りてお礼申し上げます。皆さんからの感想で、よし、もっと
書こう、頑張ろう、と書き続ける力になったものです。それから、恋歌編集部の武蔵
野式部さん、いつも原稿が遅れがちになるのを催促して頂き、ぎりぎりまで編集、配
信の作業をして頂いてほんとに恐縮です。ありがとうございました。その他、いろい
ろな場面でこの連載を支えて下さったみなさんにお礼申し上げます。それでは、ま
た、
どこかでお会いするまで。ありがとうございました。


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番外編第十二回いかがでしたか?

「恋歌」番外編は第一、第三月曜日発行です。


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2002.9.23 「恋歌」番外編第十二回発行号


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