メールマガジン「恋歌」第71回】
2004.7.22


 

展望台には「琴弾山の伝説」とした案内板があった。それによると、その昔この丘に姫が住んでいて、朝な夕な琴を弾いて過ごしていた。そこへ笛の名手でもある皇子が現われ、二人の合奏が聞かれるようになった。が、ある時、琴の絃(いと)が切れてしまい、それをきっかけに二人は別れることとなった。残された姫は山を下り、出家したのだという。そんな悲しい話なのであった。継体天皇は直接関係なかったわけだが、それにしても、どうしてこの同じ土地に女性が愛する人に去られ、残されてしまう物語が二つも残されているのだろうか。恋とは、男女の仲とは、所詮はかないものなのであろうか。絃が切れた位で、とその皇子の気持ちを疑ってみたりもする。が、そんなちょっとした些細な出来事が人の気持ちを、二人の運命を大きく左右していくというのもまた現実にあることだ。

どうも釈然としないものを感じながら展望台に登ると、きっと今立町だけではないのだろう、この辺り一帯の様子が一望できる。

琴弾山からの眺望

ふと、目の端にサヤサヤと揺れる花を感じた。新緑の季節で辺りは一面緑の景色なのだが、その中で淡い藤色の光を放っている花があった。何故かその花の揺れる姿にその人のことを思い出す。

 

[藤色の花に]

ふっと目の前に現われた藤色の花
まるで君がいたずらっぽく現われたみたいで
思わず顔がほころんでしまう

清楚で 気品と可憐さを感じさせる藤色は
君によく似合うよね

藤色の花を見て
君を身近に感じた
幸せなひととき

 

 

さて――。これからどうするか。予定していた時間よりはたっぷりこの公園を楽しんだようだ。展望台にあるお勧めのハイキングコースを記した案内板に近寄る。それを見ると僕の行きたいようなところはどこも1時間以上は歩くようである。武生の宿にできるだけ早くチェックインしたかったので、ここで山を下りて武生へ戻ることを考えた。が、やはり、どうしても気になるのが、花筺の伝説にまつわる、「薄墨の桜」である。先程も書いたが時は新緑の候。桜の花はとうに終っている。いくら名所とは言え、花の咲いていない桜を見に行ってそれを写真に撮るというのもいかがなものか。頭の中をそんなどうしようもない思いが巡った。が、それでもやはり、ここまで来たからには、その木を見てみたいという気持ちの方が強かった。きっと、その木に継体天皇はいらっしゃる――。

案内板にはここから孫桜まで10分、そこから薄墨桜までは更に5分と出ていた。ここから更に15分も山を登るのか――。多少ひるみはしたものの、結局はその桜の木に会いたい思いから一気に登り始めた。道はこれまでよりずっと細く、いくら桜の名所とは言え、その季節にほんとにこんな所まで人が来るのだろうかと思えるようなものである。途中、崖の手すりはやがてただのロープとなり、道を間違えたのではないかと不安になるようなところに「孫桜→」といった標(しるべ)が出ていてホッと安心し、更に険しい道を行く。突然の闖入者にトカゲたちは驚いて走り回り、木の枝から蜘蛛が巣を張り始めているのをゴメンと言って壊しながら山の奥へ奥へと僕は分け入って行った。

やがて道の脇に「孫桜」が現われる。成程、立派な桜の木である。この木は戦国時代に朝倉出雲守景盛が織田信長の侵攻に備えてこの地に城を築いた折に、それを記念して薄墨桜の新芽を植樹したものらしい。継体天皇ゆかりの薄墨桜の孫の桜、というわけであろう。

 

山道に突然現われる孫桜

その孫桜を過ぎて更に山奥へと入って行く。道も急になってくる。そうして登って行ったところにその桜は――「薄墨桜」と呼ばれているその木はあった。保護のため、その幹まで近寄ることはできないし、勿論花も咲いていないのだが、その大木は山の斜面から空に向って大きく張り出し、あたかもこの山の上からこの地の、そして日本の歴史を見続けているような佇まいである。そう、この木こそ、継体天皇が自らの形見として照日の前に残したと伝えられる、あの「花筺」の伝説のはじまりとなった木なのである。

 

継体天皇が形見として残したと伝えられる薄墨桜

「花筺」の伝説は、殆ど世阿弥が書いた同名の謡曲がベースになっていると言っていい。そこで、遅くなったが、ここに謡曲「花筺」の物語を簡単に記しておこうと思う。能ではまず継体天皇の使いであるワキが登場し、味真野(!)に住む大迹部の皇子が武烈天皇の後に天皇として日を継ぐことになり、急ぎ京(みやこ)へと行かなければならなくなったので、日頃から寵愛されていた照日の前に手紙と、形見として使い慣れた花筺、つまり花籠を遣わされた、その使いに赴く途中であることを述べる。やがてこのワキはシテである照日の前の許に着き、皇子の手紙と花籠を渡す。天皇即位の知らせに喜ぶ照日の前だが、手紙には彼女を置いて出立しなければならなかった事情が記され、

頼めただ 袖触れ慣れし 月影の
暫し雲居に 隔てありとも

月がたとえ雲に隠されるようなことがあってもそれは暫しの事、自分を信じて待っていてほしい、そういう歌が記されていたのである。悲しみに暮れる照る日の前。しかし居ても立ってもいられない彼女は遂に侍女を伴って今は帝の御座所、大和の国玉穂の宮へと向う。途中、気がふれた女だと蔑まれながらも、とうとう天皇の行幸の列に行き会い、携えて来た花籠がその証となって天皇も彼女と認め、改めてまた身近に置かれるようになった――そういう物語である。

前にも書いたが、継体天皇についての文献は、殆ど『日本書紀』以外に遺されていないと言っていい。従って、その『日本書紀』にこの伝承が載っていない以上、この物語は世阿弥の創作になるものであるというのが通説になっている。ところが、である。今回、この物語の背景についてもっと知りたくて出会った白洲正子さんの「花がたみ」という文章(『古典の細道』所載)の中で、白洲さんはこう書いておられる。「度々いうように、世阿弥は創作ということはしない人で、いつも史実か伝説に典拠を求める。」この文章は僕にとって我が意を得たものであった。一体、この短いエッセイは彼女がここで感じたことと言い、この後展開される推理といい、僕の体験や考えそのままであったので、この名文の後で花筺伝説のことを書くのはおこがましいことのように思えた位であった。だが、僕には自分の体験したこと、感じたり考えたことを僕自身の言葉で表現する必要があるのだ。

確かに、多くの目に見えるものは、世阿弥の謡曲をベースに後に作られたものであるに違いない。この薄墨桜とて、今立町のホームページによると樹齢500〜600年という。ということは継体天皇よりも1000年後の時代に生まれた木である。時代が合わないのだ。それから、後でわかったことだが、武生市味真野町に継体天皇を祀る味真野神社があったりするが、嘗ては今いる今立町を含めて、かなり広い地域を味真野と呼んでいたはずである。そうした歴史から見ていくと、この伝説の真偽の程は怪しいように思うかもしれない。

しかし、なのである。僕はじっと薄墨桜の案内板を読みながら、世阿弥の謡曲との微妙な違い、謡曲には書かれていないことに気づいていた。微妙でありながら、実は大きな違い。それは、世阿弥が皇子の形見として照日の前に持たせたのは花籠であったのに対し、この案内板はこの桜の木が形見であったと述べている。そう、形見は木そのものであった。花籠はその象徴に過ぎない。

古代の日本において形見とは、その人が馴れ親しんで使っているものであり、従ってその人の魂が宿っているものであった。今でこそ形見と言えば死んでいく人が遺していくものの意味になっているが、かつては旅であろうと、いや、旅でなくても通い婚の時代であれば毎日会えるとは限らないわけなので、片時でも離れなければならない折に、愛する人に贈るものであった。中でも男が女に自分の着ているものを贈るというのは正式なプロポーズに等しいものであった。女がその男の魂の宿る衣服を身につけて寝るということ、それはその男に抱かれて寝るのと同じことであった。

形見とは、そのような、正しくその人の分身なわけである。そうした分身として男大迹皇子は桜の木を遺していったのだろう。そしてそうであればこそ、謡曲にはない、もう一つの伝承が意味を持って来る。つまり、この桜は、初めは鮮やかな紅色をしていたが、年々その色が薄くなり、現在のような淡い色になったというのである。紅は古代の日本では性愛に関係する色である。皇子の魂そのものであるその花の色が年々薄くなっていくというのは、皇子の彼女への気持ちがだんだん薄れていっているということではないのか。後に遺された女性にとっては――しかも二人の子供を抱えた女性にとってはどんなに不安で気が狂いそうになることであっただろう。

今、二人の子、と書いた。そう、皇子ヶ池の水を産湯としたあの二人の子である。照日の前は世阿弥が生み出した架空の人物であろうが、この二人の皇子の母は実際に存在した。目子郎女(メコノイラツメ)である。『古事記』を注意深く読んで僕はこう想像する。『古事記』に記された奥さんたちの順番を記せば、三尾君(みおのきみ)の祖、若比売(ワカヒメ)、目子郎女、そして三番目が皇后となる手白髪命(タシラカノミコト)である。三尾は男大迹皇子の母方の郷里である。恐らく、皇子が三国を中心に活躍されていた頃最初に娶った奥さんがこの若比売であろう。その後皇子は本拠地を男大迹、今の粟田部辺りに遷された。そこで出会った目子郎女との間に後に安閑天皇、宣化天皇となる二人の皇子を生んだ。が、突然の武烈天皇のご崩御に伴い、大和からのたっての依頼で急遽日継ぎのことが決まり、恐らくは政略結婚であろう、とにかくこれまた急いで手白髪命を娶り、皇后とすることになったのではないか。大和側が皇子を迎え入れた時、皇子は男大迹にいた。だから男大迹皇子と呼ばれたのであろう。

僕は書かれずにこの土地の人たちに伝えられたものと、書かれた『古事記』の行間にその真実を見る思いがする。この伝説は、きっと実際にあったことなのだ。男大迹に住む人々にとって、自分たちのリーダーであった皇子の即位はどんなに嬉しいことであったろう。そしてその直後に訪れた、皇子の子二人を抱え、取り残された女性のことはどんなに辛く悲しく思ったであろう。そして長い年月を経て、この女性が妃(みめ)として迎えられ、二人の皇子もそれぞれ天皇となられた時、またどれだけ嬉しく、誇りに思ったことであろう。喜びも悲しみも、この土地の人々の心は受け継がれた。目に見えぬ、心の真実が伝えられていくもの、それが伝説というものなのだろう。

伝説か――。僕はまたあの琴弾山の伝説を思い出していた。それにしてもどうして女が残され、辛い思いをするという伝説がこの地にはつきまとうのか――。僕なら、そんなに愛している女性を置き去りにしてどこかへ行ってしまうというようなことを、彼女を悲しませるようなことをするだろうか。きっとしない――決意するようにそう呟く。運命的な出会いをしたような相手なら、決して手放すようなことはしないだろう、と。

そしてふと薄墨桜の大木を見上げる。その桜が継体天皇自身であるかのように感じながら、僕は不遜にも、そして軽薄にも、ふと心に問うたのだった。何故、あなたのように、あらゆる民から愛されたような人が、愛する人を置き去りにしてしまったのですか?

去りも忘れもしていない――。断固とした口調で答が返って来た。ただ天の命を優先しただけのことだ――。僕はハッとした。

 


[天命]

人間 ひとりひとり 誰にでも
天が賜った素質や能力が
天が命じた道がある
天の命を知り それを全うすること
それは天と一つ
この世のあらゆる存在とひとつとなること
その時 全ては叶う

人を愛するということが
天とひとつであることと同じだった
輝く二人から生まれたこの国で
僕も生きていこう
あの二人のように

そう、天を忘れたところに生まれた愛などいつかは終ってしまうものなのだ。花筺の物語は天の命を全うすることが、長い長い別離の時を越えて最後には幸せに結ばれるということを語っているのかもしれない。


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山から下りてくると公園の入口の辺りには子供達が楽しそうに遊んでいた。子供たちにとってここはいい遊び場なのだろう。前に小泉八雲の旧居で見かけた子供たちとダブる。長いこと忘れていたような、子供らしい元気に遊ぶ姿を微笑ましく思う。と、その中の一人の女の子にあの人の面影を見たような気がした。一瞬、僕の中で時間と空間が錯綜する。その女の子に声をかけそうになる。きっとあの人もこんな風に遊んでいたのだろうか――。

ふと気づくと、公園の入口近くに小さなまだ若くて頼りない枝が植わっている。思わずその愛らしさに心なごむ。「薄墨桜の分枝」とある。この枝もいつかは大きな桜の木となって美しい花を開くのだろうか。そしてこの桜が大きくなった頃、今ここで遊んでいる子供たちはどんな人生を歩んでいるのだろうか。その頃の日本はもっともっと良い国であってほしい。そういう国を、世界を創っていくのは僕たち大人の仕事だ。この小さな桜の枝に子供たちの豊かで幸せな未来を祈りながら公園を後にする。

粟田部のバス停からバスに乗って武生へと戻る。駅前のスーパーに入っている書店で旅行ガイドを探す。味真野、味真野――。見つけた。そしてそこに「中臣……」の文字を見た僕は、あっ、と、やっとのことで思い出した。そうだ、『万葉集』に記録された狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)と中臣朝臣宅守(なかとみのあそんやかもり)の禁じられた恋の舞台が味真野であった。

ご存じない方のために簡単にその物語を記しておくと、時は天平11年、奈良の都を舞台に釆女(うねめ)の狭野茅上娘子と神祇官の中臣朝臣宅守の間に恋が芽生えた。しかし茅上娘子は釆女、つまり天皇の奥さん候補であり、その釆女に手をつけることは当時罪であった。禁じられた恋。二人は密会を重ねる。が、ついに二人の恋は発覚することとなり、宅守は越前の国へ配流の身となる。その場所がこの味真野であった。引き裂かれた二人は互いへの思いを歌に綴る。『万葉集』には二人が交わした歌が63首も採られているのである。

味真野(あぢまの)に 宿(やど)れる君が
帰り来(こ)む 時の迎へを
何時(いつ)とか待たむ
     ―狭野茅上娘子
     (『万葉集』巻第十五 3770)

あなたはいつ帰って来るのか――。味真野と言えば誰もがこの歌を思い出すだろう。味真野――男の帰りを待つ女の狂おしいばかりの気持ち。それは同じくこの地を舞台にした男大迹皇子と目子郎女の物語へと重なっていく。形見として残された桜の木――。その「花がたみ」で思い出す、この稿の冒頭に掲げた『古今和歌集』のよみ人知らずの――自分のことは忘れられてしまうかもしれないという片想いの歌。更には琴弾山の伝説――。世阿弥が「花筺」の物語を書いたのは、史実をベースにした物語というよりは、ここに伝えられた女の悲しみ、それを全て受け止め、表現することで癒し、解放しようとしたのかもしれない。

行ってみたい。味真野へ。僕はバス停へと急ぐ。もうそこへ行くバスはない。いや、あるにはあるがその時間では散策した後ここに戻って来ることができなくなるだろう。翌朝行くにしても、予定している電車の出発時間までには戻って来れない。今回は諦めるしかないのか――。

翌朝。朝から雨が激しく降っていた。晴れていれば紫式部公園にでも行ってみるかと思っていたがこの雨だ。やめておこう。そう、この武生の地はあの『源氏物語』を書いた紫式部の父藤原為時が越前国司に任ぜられた時に、その父に伴われて当時の越前の国府があったこの武生に住んでいたのである。そのことを記念して平安時代の庭園を再現した公園がここなのである。別に実際に式部が住んでいた家が残されているわけでもないので時間に余裕があったら寄ってみようかという位にしか考えていなかった。が、この雨では無理に行くまでもあるまいと、やめる。

雨の中、武生駅へと向い、福井行の電車を待つ。前に福井を訪れた時も雨だった。味真野か――。いつか訪れてみたい。そう、いつかまたきっとここに来よう。そこを訪れ、茅上娘子と宅守の思いを感じてみたい。世阿弥が何を感じ、思って「花筺」の物語を書いたのかを再体験してみたい。その時、「花筺」の物語は僕の中でどんなものとなるのだろう。その意味で今回のこの稿は僕の「花筺伝」の第一部ということにしておきたい。そして、いつか、また、きっと――。

福井行の電車がホームに入って来た。僕は車中の人となり、武生駅のホームが過ぎ去っていく。たった一日いただけなのに、昨日は新鮮さを覚えた駅なのに、今やそれは懐かしくいとおしい。また帰って来るよ――駅に向ってつぶやく。そう、いつか、また、きっと――。


―了―


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<福井県集中豪雨に対する義捐金のご案内>

こんにちは。出雲頼通です。

何の因果でしょうか。この「花筺伝」の連載中に、
このエッセイの舞台となった福井県今立町が集中豪雨に見舞われました。
今立町役場のホームページによると
931世帯、3,530人が罹災し、死亡者1名を出したとのこと
ここの美しい自然に触れ、癒された僕にとって
他人事(ひとごと)とは思えず、固唾を呑んでニュースを見守っています。

この集中豪雨による被災者への義捐金を福井県で受け付けています。
詳しくは次のサイトをご覧頂き、ご支援頂けましたら幸いです。

●災害見舞金、見舞品、救援物資の受け入れについて
http://www.pref.fukui.jp/0718/mimai.html


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