メールマガジン「恋歌」第70回】
2004.7.15


 

花がたみ めならぶ人の あまたあれば
忘られぬらん かずならぬ身は
―よみ人知らず―

(『古今和歌集』巻第十五 恋歌五 754)


初めてその人の話を聞いて以来、ずっと一度訪れてみたいと思っていた――。そこはその人の生まれ育った家の近くにある公園でその人の遊び場だった所で、継体天皇ゆかりの場所であるという。継体天皇――武烈天皇がお隠れになった後、遠く越(こし)の国から大和に呼ばれ、その後の国造りに大きな役割を果たすことになった天皇――。この謎の多い天皇と古代の日本への憧憬。その公園に遊ぶ幼い日のその人の姿。今からもう20年近く前に一度行った時の、空の鈍色と福井平野の緑がモネの絵画のように輪郭線なしに広がっていく雨の日の福井の光景。その人の不思議な話を聞きながら浮かんだ心象風景だ。

あの時福井を訪れたのは三国海岸を見たかったからだ。「ガンダーラ」で有名なゴダイゴが "Mikuni" という美しい歌を歌っていて、当時のレコードには「御国」という日本語のタイトルがついていたが、後にこれは作詞の奈良橋陽子さんが福井の三国海岸を訪れた時のものということがわかり、歌のイメージからどんな所だろう、と思っていたのだった。

Standing by the sea
Looking out into forever
I hear a call so fierce
I wake up and I remember.

From the cliffs I see the waves
Exploding into white
Lashing from the depth
I too could reach the heights.

Let your heart fly
Fly high, let it go free
Leave your body far behind
Let it love once more.

Let your heart fly
Fly high, let it go free
Leave your body far behind
Forever be free....

 

<海辺に佇み
 僕がじっと見つめるのは「永遠」
 荒々しく呼ばわる声が聞こえ
 僕の内側で何かが目覚め 思い出す

 崖の上から波が見える
 白い飛沫となっていくそれは
 深い海の底から湧き上がってくるのだ
 そう 僕だって天に達することができるさ

 さあ 心の翼を広げて
 空高く 自由に飛んでいこう
 心を体から解き放って
 もう一度 人を愛する心を取り戻そう
 
 さあ 心の翼を広げて
 空高く 自由に飛んでいこう
 心を体から解き放って
 永遠に自由に生きるのだ>

そう――あれからもう20年近くも経つのか――。自由な学生の頃は気ままにあちこち訪れていたが、特にこの10年は仕事で忙しくてどこかへふらっと出掛けることはなかった。今回もそうだ。いつも話しているいだきしんさんと高麗恵子さんによるイベント「高句麗伝説」の大阪公演と富山公演の間、1日だけ空いてしまった時間をどう過ごすか考えていて、大阪から富山に向う途中にある福井に立ち寄ることを急遽決めたのだった。

思い立ったが吉日、と、その方向で考え始めるが、その人からも詳しい話は何も聞いていないのだ。ただわかっているのはそこが福井県の今立町というところで、駅としてはJRの武生駅が一番近いらしいこと、その町にある継体天皇ゆかりの場所であること、そしてその人が発音した不思議な言葉――「ハナガタミ」――それだけであった。

運のいいことにそれだけで十分であった。すぐにそこが花筺公園(かきょうこうえん)という所であることがわかったからだ。すぐに武生駅近くの宿を予約して、その場所へと向うことにする。

大阪からは東海道本線の各駅停車で米原まで出て、そこから福井行の電車に乗り換える。米原を過ぎるとだんだんと山に入っていく感じで緑が多くなってくる。ああ、この感じは前に来た時と同じだ。遠くまで来たという感じと何とも言えない懐かしさを覚える。

武生――。この駅で降りるのは初めてだ。佐々木小次郎のふるさと、といった広告に胸が躍る。そうか、佐々木小次郎はこの辺りの出身だったのか――。佐々木小次郎のことはよくは知らない。が、僕の生まれた門司の町からはいつも巌流島が見えていて、子供の頃父親に連れて行ってもらったものである。この島で宮本武蔵と決闘し、小次郎が負けたということは知っていた。が、この島にあるのは小次郎の碑であって武蔵の碑ではなかったのを子供心に不思議に思ったことを覚えている。何故勝った方の武蔵の碑がないのだろう、と。小次郎が生れた土地へ思いもかけず訪れたことに不思議な因縁を覚える。

改札を通って駅前に出ると、早速バス乗り場を探した。バスで20分、と事前に読んでいたガイドにあったのでバスが出ていることはわかっていたのだ。が、時刻表を見て驚いた。どの方面に行くにも、1時間に2、3本あればいい方なのである。僕の行きたい花筺公園方面のバスは1時間待たなければならないようだった。ここの時刻表ではそれぞれの路線がどのような所に寄るのかさっぱりわからない。普段使っている地元の人には何でもないのだろうが、僕のような旅人には知らない地名ばかりでどれに乗っていいのか皆目見当つかない。1時間待たなければならないのは経由地として「粟田部」と書かれてあるバスだ。見覚えのある地名。花筺公園のある場所は確かここだ。他に見覚えのある地名は――? 目に飛び込んで来たのは「味真野」である。僕ははっとした。「味真野」――「アジマノ」――「アヂマノ」――思い出せない。が、その響きは僕の身体を奥底から震わせた。思い出せない。だが、自分にとってとても大事な何か、そこへ行かなければならない何かがあると感じていた。思い出せない。が、今は早く花筺公園へ行きたい。そのことはまたここに戻って来てから調べることにしよう――。粟田部行まであと1時間――そんなに待ってはいられない。結局はタクシーに乗ることにした。昨年の熊野でこうした地方での10分と東京の10分が違うことは経験している。20分というと、これはかなりの距離だろう。が、ここで僕は時間を惜しんだ。タクシーに乗ることに決める。

タクシーは暫くこの街の幹線道路らしいところを走るとやがて橋を渡り、畑が広がり、建物がまばらになっている中を進んで行く。途中の景色、街中の商店やスタンドや本屋、そして田舎道に入ってからはその畑も山も、古めかしい民家も、すべてが懐かしく、いとおしく映る。初めて訪れた土地で全ては新鮮で、心躍る。初めて訪れた土地――そしてこれはあの人が見ていた風景だ――。

思った通り、タクシーは不安になる程長い時間走り続けた。やがて辺りを囲む山の一つに近づいたと思うと、タクシーは民家が建ち並ぶ路地を右に左に入って行き、突然停まった。「花筺公園です。」

公園を入るとすぐに小さな滝が迎えてくれた。小さな、それでいてその瀬音に、その静謐なる空気に、僕は身も心も癒され、清められる。美しい――本当に美しい空間。あの人がここで不思議な経験をしたというのも頷ける。と思ったところで、その人はこの公園のどの場所でそんな経験をしたのだろう、子供の頃遊んでいたというのはどの辺なのだろうとふと思いが過ぎる。そう、その人と一緒に来ることができれば一番よかったのだろうが、その人は別に用事があるとのことで今回は――いつものことではあるが――全くのガイドなしである。この公園がどんな広さでどこに何があるか全くわからないのだが、ままよ、足に導かれるままに歩いてみることにしよう。

 

花筺公園に入るとすぐに涼やかな瀧が迎えてくれる(花左)――右は「筺ゆかりの地」の石碑


奥へと足を進めるとすぐに「花筺ゆかりの地」の碑に行き当たる。この碑の脇に設けられた案内板で僕は花筺の物語を詳しく知る。そう、今回の訪問は急に決めたこともあって僕にしては珍しく下調べというものを殆ど全くしていなかった。手がかりはその人の話だけだったのだ。僕にはそれで十分だったからだ。が、この案内板で僕ははっとした。花筺は継体天皇に纏わる物語であり、継体天皇が越の国、現在の福井県から来た天皇であることは知っていたが、この案内板によるとこの粟田部の地はかつて男大迹と呼ばれていたというのだ。

継体天皇は男大迹皇子(オオドノミコ)と呼ばれていた人である。『日本書紀』でも『古事記』でもその名をオオドノミコとするが、世阿弥の手になる謡曲「花筺(はながたみ)」では――そしてその謡曲を元とするこの公園の案内板の多くも――大迹部(オオアトベ)の皇子とするのである。オオアトベ――恐らくはオオド部(べ)が字につられてオオアトベとなり、それが更に訛ってアワタベとなったのだろう。継体天皇のことを詳しく記す唯一の書物である『日本書紀』にはこの土地のことは全く触れられていない。そこからわかるのはどうも以前訪れたことのある三国が継体天皇の本拠だったらしいことである。それは当然であろう。『日本書紀』の継体天皇の部分は朝鮮半島関係の、軍事、外交史が多い。それ程にこの天皇は朝鮮半島と関係が深かったのであろう。越の国といい、出雲の国といい、当時勢力を誇っていた国は先進国である中国、朝鮮と向かい合った日本海側の地域である。日本海に沿った三国が越の国の中心であったことは容易に想像できる。今いる粟田部も含めていいと思うが、現在の武生市を中心とする地域が越の国の国府となったのはずっと後のことで、それは大和地方から見てここが越の国の中で一番近くて便利だったからであろう。

従って――室町時代の世阿弥が元となっている花筺の伝説――継体天皇がここにお住まいになり、照日(てるひ)の前と愛を交わされたという伝説は、書物に残された歴史の上からは疑わしい。第一、照日の前などという名前自体がいかにも室町趣味であって、6世紀初めの日本にそんな名前があるはずはないのである。

だが――。この公園の、この土地のやさしい空気は――。僕はこの所歴史的な土地を訪ねてはいるが、それは歴史の検証をするためではない。寧ろ、そうした歴史的な土地に脈々と生き続けている、神話や伝説となった人々の魂に触れたいのだ。歴史的事実といったものとは別に、何もない所に国を創っていった偉大な人の魂はその土地の自然と一体となり、何百年、何千年の時を越えて受け継がれ、現代に生きている。そう、この土地の、このやさしい空気は『書紀』に「士(ひと)を愛(め)で賢(さかしき)を礼(ゐやま)ひたまひて、意(みこころ)豁如(ゆたか)にまします」「性(ひととなり)慈仁(めぐみ)あり」と評され、多くの民から慕われたという継体天皇その人のものでないことがあるだろうか。この公園の木々が、風が、水が、そして取り巻く空気が語る、それが真実である。

さて、この「ゆかりの地」の碑の側に園内の地図がある。それを見て、まずは面白そうと思ったのが「皇子ヶ池」で、そこに行くことにする。そこの案内板によるとこの池はこの地にあった男大迹皇子の城内の池だそうで、この池の水をこの天皇の二人の皇子、勾大兄皇子(マガリノオオエノミコ)と檜隈高田皇子(ヒノクマノタカタノミコ)、つまり後の安閑天皇、宣化天皇の産湯に使ったという由緒正しい、聖なる池なのである。成程。ということは、このお二人の天皇がお生まれになったのがこの粟田部の地ということになり、とすればその母親である目子郎女(メノコノイラツメ)こそ世阿弥の照日の前のモデルであろうか――。このことはまた後で詳しく書くことにする。

 

皇子ヶ池(左)――中を覗き込むとどうも池の水は干上がっているようだ(右)

この皇子ヶ池から先程の「ゆかりの地」の碑へ戻る途中に金比羅社への参道がある。金比羅さんかぁ。継体天皇と関係あるとは思えない。が、何故か心惹かれるものがある。この土地の全てを感じてみたい。そんな気持ちから、きっと高い高いところにあるに違いないその金比羅さんへと登ってみることにした。参道と言うよりは、階段と言うよりは、これは山道である。先日の雨でやや湿ったその道は滑りやすくも、またやさしくもあった。どこまでも登っていくその道に息は上がっていくのだが、しかしとても心地よいのだ。

 


[やさしい空間]

風にそよぐ木々のささやきは清々しさを
葉の間から零れてくる陽の光は暖かさを
そのやさしい空間に
僕の心もとけてゆく

僕の顔を掠める小さな虫も 花にとまる蝶も
ここに生きるあらゆる生命がいとおしい
そのやさしい空間に
僕はとけて一つとなる

やっと登り詰めると、急に視界が開け、金比羅社の境内からは山々に囲まれた今立の町が一望にできる。高台の空気の清々しさとその眺望のよさに心が晴れ晴れとする。そう、この心が清く晴れるためにこそ、古(いにしえ)の人はわざわざこんな高い所に神社を作ったのだろう。

金比羅社のある高台からの眺望


別にさして見るべきものもなさそうなので、しばらく今立の景色を眺めると今登ってきた道を降りる。登る時はそれだけで一生懸命だったからわからなかったが、結構高い所まで来ていたものである。降りる時の方が長く感じられた。

金比羅社の参道を降りきると出雲社の前を通り過ぎ、更に出発点とした「ゆかりの地」の碑を通り過ぎて「岩清水」を見に行くことにする。途中、土手から水が滲み出ては滴り落ちている場所があり、しばらくそこにいたが、しかし、名所というからにはこの程度ではあるまい。僕は耳を澄ました。道の上の方からサーッという音が聞こえてくる。これは――風に揺れる葉の音か――いや、それよりは水の音のような気がする――。まぁ、違ったとしてもここまで来たからにはこの公園を隅々まで散策してみるのも悪くはあるまい。僕はその道を更に登ってみることにした。そして――。

 

水の滲み出す土手(左)――滴り落ちる水滴に小さな葉が揺れる(右)

僕はあっ、と驚いてしまった。巨大な岩の塊が大きな洞を形成しているそのあちこちに石仏が彫られているのだ。「岩清水」というその名に反して僕が訪れたこの時水は少なく、殆ど溢れるというよりは石伝いに滴っているだけのようだったが、きっとその昔この洞は滝になっていて、その水に打たれて仏教の僧たちが修行したに違いない。どうやって登ったのかわからない高い岩の絶壁にいくつも並ぶ石仏に、修行した僧たちの信仰の強さ、不屈の精神を感ぜずにはいられない。

 

岩清水――その切り立った岩のあちこちには石仏が

公園の順路へと戻ると矢印は更に上の方に琴弾山の展望台があることを示している。「コトビキ」――その音の響きに僕はまた誘われた。もともと音楽が好きだからでもあるが、それが継体天皇の事跡と関係あるように思えたからだ。何故なら、琴はもと神を呼ぶ楽器であり、天皇とはもと祭祀者であったからだ。このことは『古事記』の仲哀天皇の条などを読むとよくわかる。

さすがに息が切れてきた。が、汗をかき、大きく呼吸することで自分の中の余計なものが出ていくようにも感ぜられ心地よい。ホーホケキョ、と鶯の声。心が和む。楽しい、と思う。山道を登り続ける。

そして――。視界が開け、展望台が見えてきた。


つづく


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