メールマガジン「恋歌」第69回】
2004.7.8


 

出雲と言えば誰もが思い出すのが大社であり阿国であろう。歌舞伎の創始者として有名な出雲阿国はもと出雲大社に仕える巫女であったと言われていて、ここ出雲大社から稲佐へと向う431号線に沿って阿国ゆかりの場所がいくつかある。歩きながらこの辺りが中村という土地であることがわかりハッとする。歌舞伎役者の中村という名前は阿国以来の伝統を受け継いでいるわけである。そう言えば三味線の杵屋――杵家、稀音家とも書くが――も杵築と関係あるのかもしれない。

ややこ踊りともかぶき踊りとも言われる派手な念仏踊りをして一世を風靡した阿国が巫女出身であったことは歴史の大きな流れと日本の伝統というものを考えさせる。もともと「遊び」と言われた音楽、舞踊は自分が楽しむというよりは神を楽しませるために行われたものであって、その起源はアマテラスオオミカミが天の岩屋戸にお隠れになった時に、アメノウズメが神懸りして踊ったことに始まる。この踊りこそ神楽(かぐら)の起源であり、やがてサルタヒコと一緒になったアメノウズメの子孫は猿女(さるめ)と呼ばれ、代々歌舞音曲を行う巫女集団を形成していく。日本では古来、女性が神を呼び、神と交流することができると考えられていた。女性が神懸る様が踊りの起源なのであり、それを巫女が担うのは当然と言えば当然である。

しかし、やがて経済的な理由からか、この巫女たちの一部は神社の外に、つまり俗世界に「流出」することになる。歌舞音曲をたしなむ彼女たちは人々を楽しませることで生活の糧を得るようになり、ある者は後の白拍子へとつながっていく芸人となり、ある者は渡し場などで身をひさぐ遊女となっていく。「遊女」と書いてこれまた「あそび」と読み、平安時代の書物には遊女は朝廷の管轄下にあり、朝廷が支えていたことが書かれている。

そうした背景の中で、戦国時代が終り、関ヶ原の戦いを経て太平の世が始まろうとする頃、阿国は登場する。出雲大社修理のための費用を勧進するために全国を巡る興行の一座のメンバーとして巫女であった阿国は参加したのである。そして今から400年前の1603年、京都の四条河原での派手な彼女のパフォーマンスに京中が沸くことになる。派手な色使いの着物で男装し、刀を手に持ち、髪もバッサリと切ったショートカットで、そんな女性が恋の歌を歌いながら狂ったように――恐らくは神懸っていたのだろう――踊ったのである。

この「かぶき踊り」の話題に目をつけたのが当時京都の遊女たちを仕切っていた人たちで、遊女たちに琉球から入ってきた最新楽器三味線が弾け、かぶき踊りができるように指導していくのである。当然のようにこれは都の男たちの間で大受けするが、その流行によって風紀が乱れることを恐れた江戸幕府によって禁止されることになる。しかし、禁止はされても一度火のついた人の心を抑えることはできず、阿国の「かぶき踊り」は一方では歌舞伎へと、そしてもう一方では芸者へと、日本の伝統を新たに生み出すことになっていくのである。

そんなことに思いを馳せながら道を歩いていると、右手に「連歌庵」が現われる。阿国はそれほどの一大ブーム、いやセンセーションを巻き起こした人物であるが、この出雲の地に帰って来ると、余生は出家してこの庵に籠り、連歌三昧の暮らしをしたという。

所謂連歌は鎌倉から南北朝期に流行、定着したものとして知られているが、ものに感じて発された句を受けて即興的に次々に歌い継いでいくというのは、日本の歌に、特に恋の歌に本質的なものである。平安時代の歌競べに、『万葉集』の相聞歌や問答歌に、そして『古事記』や『風土記』に見られる歌垣の歌にそれを見ることができる。頭を絞っていい歌を考えるというよりは、相手の歌に即興的に返していく中で場は盛り上がり、皆の心もひとつになっていく。歌は人が自然や人と瞬間瞬間交流してひとつとなっていくものであった。「かぶき踊り」の阿国が晩年連歌に明け暮れたというのは僕にはとても自然なことのように思える。激しい派手な踊りであれ、この小さな庵での連歌であれ、感じたものをそのまま即興的に表現していく、表現者としての阿国を僕は見るのだ。

 

阿国が余生を送ったという連歌庵(左)――そこのレリーフには阿国の胸に十字架が(右)


この連歌庵の手前に阿国のレリーフが立っている。「異形(いぎょう)」という言葉が思わず浮かぶ。変わった髪型。右手に扇子、左手に刀。それから――。僕の目を引いたのは胸に掛かるクルス(十字架)である。何故クルスなのか?

それは必ずしも彼女がクリスチャンであったことを意味しないと思う。この変てこなスタイルは、或いはかわいいと思ったものを何でも自由に組み合わせて着こなす最近の若い女の子たちに共通するのではないだろうか。女が男のものを着ること。女が男の髪型を真似ること。女が刀を持つこと。海外から渡来し、当時寧ろ弾圧される傾向にあったクリスチャンの十字架を胸に掛けること。これら全ては既存の価値観を抜け出し、より自由であろうと、自分自身であろうとする阿国の生き方や姿勢を表しているように思える。阿国の踊りに人々が熱狂したのはただもの珍しいからではない、ただ新しいからではない、ただ淫靡だったからではない。その自由の息吹の中にそれまで抑圧されてきた内面が解放されるのを感じたからであろう。

さて、稲佐への道を更に進むと、今度は左手に阿国の墓がある。いくつもの墓石が並ぶ中に、亀のような形の、ただの平たい石が置いてある、それが阿国の墓だ。その石に向い、僕は思わず手を合わせる。胸の内がほんのり暖かくなり、その暖かさが体中に広がっていった。

 

[ 阿国 ]

いつか会いたいと思っていました
ずっと気になっていました
あなたの事を
やっと会うことができましたね

この地で僕は知りました
あなたが歌い 踊ったのは
心の裡なる表現であったと
天とつながる心の表現であったと
心に感じたものを表現していく時
それは現実となっていく
現実を変えていく
古(いにしえ)の人たちが歌を歌ったのは
悲しみを悲しいままに
苦しみを苦しいままにせず
人の心を動かし 自然に訴え
過酷な現実をよりよいものにするためでした

いつの頃からか
僕たちは歌を忘れてしまいました
胸の裡を表現することができなくなっていました
表現したら殺されてしまう
そんな恐れから いつしか自分が何を感じているのか
それすらわからなくなってしまいました
自分が何なのかわからなくなり
世の中何が正しいのかもわからなくなってしまいました
何故なら 心に感じていること
それこそが真実だからです

時代は大きく変化し
今 天が真実を明らかにしようとする今
僕たちみんなが自分の心の真実に気づき
それを表現することができたなら
世界は早くよりよいものとなるでしょう

あなたが表現して時代を創り
新しい伝統を創ったように
僕も表現していきましょう
そして 誰もが自由に胸の裡を表現でき
人と人とがより深く交流し合い
ひとつになっていける
そんな世の中になりますよう
見守っていて下さい

 

阿国の墓

深い感慨と共に阿国の墓を後にすると更に海へ向って歩き出す。今度は右手に「出雲阿国終焉地之碑」というのがあって、そこの丘を登った所に「於國塔」という記念塔がある。この塔自体は歴史的な意味はなさそうだったが、この丘の上に展望台があると知って、序でに登ってみることにした。塔は歌舞伎関係者が寄進したもので、塔の周りには寄進した役者たちの名前が見える。

 

二代目中村雁治郎丈の揮毫による「出雲阿国終焉地之碑」(左)と歌舞伎の名優たちの寄付による於國塔(右)


丘の上の展望台からはこの出雲一帯が一望できる。特に稲佐の海岸線が美しい。『出雲国風土記』に描かれたこの国の成り立ちは実に壮大である。出雲の国は初め小さかったので、ヤツカミズオミヅノノミコトという神様が、或いは朝鮮半島の新羅から、或いは越の国、或いは隠岐の島から、土地を引っ張ってきてくっつけた、所謂「国引き」によって創られたというのである。

『風土記』に曰く、「『栲衾(たくぶすま)志羅紀(しらき)の三崎(みさき)を、国の余り有りやと見れば、国の余り有り』と詔(の)りたまひて、童女(をとめ)の胸すき所取(と)らして、大魚(おふを)のきだ衝(つ)き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身(みつみ)の綱打ち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船(かはふね)のもそろもそろに、国来々々(くにこくにこ)と引き来(き)縫へる国は去豆(こづ)の折絶(をりたえ)より、八穂尓(やほに)支豆支(きづき)の御崎(みさき)なり。此(ここ)を以(も)ちて、堅め立つる加志(かし)は、石見(いはみ)の国と出雲の国との堺有(な)る、名は佐比売山(さひめやま)、是也(これなり)。亦(また)持ち引ける綱は、薗(その)の長浜、是也。」ちょっと長い引用になったが、リズムがいいので載せることにした。要するに、ヤツカミズオミヅノノミコトが、新羅の国の岬に大きな魚を突くように鋤を突き刺し、魚を屠るように土地を切り分けると、それに大きな綱を掛けて、船を引くように「国よ来い、国よ来い」といってそろそろと引いて来て縫い合わせたのが小津の断崖から杵築の御崎までで、引いて来た国を固定するための杭が出雲と石見の境にある佐比売山で、その時使った綱が薗の長浜、というのだが、今僕が見ているのがその長浜である。この美しい海岸線を国引きに使った綱と表現した古代の人のセンス、イメージの雄大さに感心しながらしばし見とれる。

国引きに使った綱と言われる薗の長浜

展望台のある丘を下りると、阿国ゆかりという安養寺に立ち寄って、いよいよ稲佐の浜へと至る。

稲佐の浜は、例の国譲りのための会議が行われたという場所である。『古事記』によればアマテラスより遣わされたタケミカヅチノカミとアメノトリフネノカミの二柱の神は、出雲の国の稲佐の浜に下り来て、十束の剣を抜いて、逆さまに波に刺し立てると、剣の切っ先に足を組んで座って大国主神と対峙したという。僕は、ここにぽっかりと浮かぶ弁天島こそその剣と例えられた場所なのだろうかと想像する。

 

稲佐の浜にある弁天島(左)――この稲佐の海の向こうから八百万の神々はやって来る(右)

また、この稲佐の浜は神在月に全国から神様が集まって来る場所でもある。その神々の先導を務めるのが「竜蛇様」と呼ばれる海蛇である。神迎えの神事は、この海蛇を稲佐の浜から出雲大社に迎え入れることで行われる。竜蛇様のこともまた、八雲の「杵築」に詳しく書かれている。ここにも古代日本の蛇信仰を見ることができる。

浜で暫く遊んだあと、ここまで来たからには日御碕(ひのみさき)に寄りたい気もしていたのだが、松江に早く戻らねばならない用事が出来たこともあって、そのまま大社の方へと引き返した。駅に着いたのは朝の8時頃で静かであったが、もう11時近くになっていて、どうやら結婚式がいくつか行われているようで礼服の人たちが多く行き交っていた。先程は通り過ぎた神楽殿であるが、何やら太鼓の音や笛の音が聞こえて来たのにつられて様子を窺うと、ちょうど婚儀が執り行われているところであった。神官が幣(ぬさ)を右に左に振る様子に奥ゆかしく神聖なものを感じていたが、ふと妙なことを思い出した。そう、僕は子供の頃、神社でやはり神官が幣を振るのを見てすっかり気に入ってしまい、母が掃除で使う「はたき」を逆さに持って幣に見立て、「カシコミカシコミ」と訳もわからずに真似していたのである。人の関心の対象というのは、何十年経ってもそう変わるものではないらしい。

 

神楽殿の注連縄もまた大きい(左)――神楽殿での婚儀(右)

さて、神楽殿からまた川を渡って西の門から再び大社の境内に入ると、またも大地を揺さぶり、魂を奥底から揺さぶるような荒々しいリズムの太鼓の音が聞こえ、やがてそれに笛が加わる。今度は拝殿である。拝殿にはこれから大国主神にお願い事をする人たちが上がっていた。初め、僕の目は笛と太鼓を奏でる伶人たちの姿に見入っていたが、やがて拝殿の中央で鈴の音を響かせながら不思議なステップで輪を描いて舞う巫女の姿に釘付けになった。何と不思議な舞なのであろう。きっと遠い遠い古代からずっとこの同じ形で鈴を鳴らし、舞い続けてきたに違いない。神代の儀式を目の当たりにする思いである。そう言えば、八雲もやはりこの舞のことを書いている。「それはかつて見たこともない、不思議な、神に捧げる聖なる舞いだった。一挙一動が詩のように美しく、その所作はたとえようもなく優雅」だと。(「杵築」遠田勝訳・講談社学術文庫)正にその通りである。

 

拝殿では太鼓と笛の音が響き渡り(左)、巫女が鈴を鳴らしながら不思議な舞を舞う(右)


この巫女の舞に衝撃を受けながら、僕は緑の参道を駅の方に向った。ここで僕は大国主神で出会えただろうか? いや、大国主神自身は何も語ってくれなかったように思える。が、この巫女の舞と言い、神楽殿での婚儀と言い、そして――。そう、阿国の墓も、連歌庵も、稲佐の海岸の永遠に変わらぬ光景も、全てが語っている。かつてここに偉大な国を、人々が豊かに、幸せに暮らしていける国を創った神のような人がいたことを。そしてその人を誇りにし、慕い、敬う精神は脈々と、現代に生きる人たちの心の中に生きていることを。

僕は再び一畑電車に乗ると松江へと向う。今晩、そこで国創りイベント「高句麗伝説」が行われるのだ。このイベントは、僕たち一人一人が自分の本音に気づき、本来の素質や能力が仕事や社会の中で表現され、活かされることが、個人の豊かな人生のためにも、平和なよりよい世界実現のためにもなることを、伝え、体験してもらうものだ。そう、よりよい社会は、平和な世界は、誰かに創ってもらうものではない。僕たち一人一人の心の裡にある真実に気づき、それを表現すること、そこから始まっていくのだ。

かつてこの出雲の地にあったような幸せな国を今一度創ること。それは僕たち一人一人に懸かっている。


―了―

*文中紹介されている国創りイベント「高句麗伝説」についての詳しい情報は以下の公式サイトをご覧下さい。
 http://www.idaki.co.jp/jp/


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