メールマガジン「恋歌」第67回】
2004.6.24



 

――二人の遠藤さんに感謝して

いだきしんさんのいわきコンサートで初めて福島の地を訪れた。いや、福島と言わず、僕はこれまで東北地方には殆ど行ったことがない。6、7年前にそのいだきしんさんに連れられて十和田や奥入瀬、八甲田などを回ったのが初めてでその時以来なのである。福島は東北の中でも一番関東に近くて、ある意味いつでも行けそうなのにこれまで一度も機会がなかったのだ。いや、地理的な近さよりも、僕自身が九州出身ということもあって、精神的にどこか遠いものを感じていたからというのが正直なところだろうか。

知人に旧姓を遠藤さんという人が二人いて、どちらもその福島に関係ある人だ。そう言えば福島と言わず東北には、遠藤、佐藤、斎藤、工藤といった「藤」の字がつく名字が多い。きっと藤原秀郷とか奥州藤原氏と関係あるのだろう。今言った遠藤さんの一人は遠藤盛遠の子孫に当る人だと言う。遠藤盛遠――。昨年の熊野への旅の時にも少し書いたが、この人の袈裟御前との壮絶な物語は、そして後に文覚となって源頼朝が蜂起するのを支援した物語は、僕が古典平家や吉川英治さんの『新・平家物語』を読んで以来ずっと気になって仕方がない。その盛遠にゆかりの滝がやはり福島にある。知人の遠藤さん、盛遠、そしてコンサート会場のある地名も「平(たいら)」――壇ノ浦に近い所で生れ、『平家物語』に惹かれ続けている僕にとって、あこがれと言おうか、魂が呼び寄せられるような福島行となったのであった。

目的はいだきしんさんのコンサートに参加する、ということに他ならないのだが、折角行くのだったらこの機会に、どこかこの辺りの歴史的な場所を訪れてみたいと欲が出てきた。福島なら見るべきところは沢山あるであろう。ところが、驚いたことに、会津若松とか喜多方とか、或いは郡山とかならいろいろあるのに、このいわきは、以外と少ないのである。その中で特に興味を引いたのが勿来(なこそ)の関跡だ。ここは、芭蕉の『奥の細道』でも有名な白河の関と並んで、蝦夷の侵入を防ぐために築かれた軍事的要衝という場所であり、特に八幡太郎と呼ばれ、弓の名手として知られる源義家の活躍との関連で知られる場所である。

初めに書いたように、僕は東北のことをよく知らないのである。その歴史的な背景を面白く伝えてくれたのは高橋克彦さんの『炎立つ』であり、従来の京都中心の歴史観とは異なり、東北の側から書かれたこの本に僕はすっかり安倍貞任(あべのさだとう)や藤原経清(ふじわらのつねきよ)といった東北の、自分達の先祖達が築いてきた豊かな生活を守るために命を賭ける男達に共感し、心酔しながらも、同時に、何度も命辛々の敗北を喫しながら諦めることなく最後にはこの二人を討ち取って出羽の守としてこの地を治めることになっていく源義家にも天晴れと、男として感嘆、称賛したものである。あの本を読んだ時の感動が、源義家の名と共に蘇って来た――。

知らない土地を訪れようという興奮からか、翌日は5時前には目が覚めてしまった。コンサートに間に合うには8時過ぎに家を出ればいいのであるが、それまで家でグズグズしているのもどうかと思い、いっそのこと、早く出て2本前の常磐電車に乗れば勿来の関跡を訪れる時間位はあるではないか。こうして僕は荷物を手早くまとめると車中の人となった。

常磐線に揺られながら、東京に来て20年以上になるというのに、東北と言わず、関東ですら殆ど訪れたことのない地が多いことに気づいた。常磐線は千葉県から茨城県を抜けていくが、黄門様で有名な水戸も、原発で知られる東海村も、電機メーカーの街日立も、よく知っているようでありながらこの目で見るのは初めてな町なのだった。しかし、そうした名だたる町を除けば、旅の景色は海もなく山もなく、ただ広い平野に畑が広がる退屈なものである。

その、延々と続く茨城県を過ぎて福島県最初の駅が他でもない、勿来駅なのである。ということはつまり、ここは平安時代に奥州と関東と境だっただけでなく、現在もまた東北と関東の境ということになる。本来、幸せな暮らしをしていた奥州の人達の土地に侵入し、それを支配下に置こうとしたのは大和政権である。しかし奥州の人たちはその侵略に屈することなく戦った。それを大和政権は「まつろわぬ」、つまり言うことをきかない人々としてやっかい者扱いし、蝦夷と呼んで軽蔑した。奥州と大和の戦いは長い年月に渡って繰り返され、その過程で築かれたのが初めは菊多の柵と呼ばれたこの勿来の関である。勿来、つまり「来るな」というのは奥州の人たちにここより南には来ないでくれ、という大和側の願いが込められているが、その願いは寧ろ奥州の人たちのものであったろう。攻めてきたのはあくまでも大和なのである。その「来るな」の願いが込められた関が今も東北と関東の境になっていることに、僕は何か根深い、埋めることのできない溝を感じてしまうのである。結局、1,000年以上の時を経て尚、何も変わっていないのではないか――。言いしれぬ悲しみ。南から来た人間としての後ろめたさ。複雑な、一言では言い表すことの言えない様々な思いがないまぜになった感情――。

勿来駅で降りると、まず駅前にある案内板で勿来の関跡の場所を確認する。今回は地図も何も持っていない。立ち読みしたどのガイドブックを見てもタクシーで5分と書いてある。が、地方での車による所要時間が東京のそれとは違うことは昨年の熊野の旅で経験済みだ。自分の勘はあまり当てにならない。乗る予定の電車まで1時間半ある。もし30分歩いて辿り着けなければ諦めると決めて、案内板の地図を頭に叩き込むと道に沿って歩き出した。

頃は4月の半ば過ぎ。北の空気はまだ冷たかろうと思っていたが、確かに空気は澄んでやさしい感じがあるものの、この日はよく晴れて陽射しが強く、暑い位であった。それでも関へと向う道に沿って最後の桜が美しく咲いていた。最後の、と言ったのは、淡いピンクの花の合間に、緑色の新しい葉が生え始めていたからだ。

関の跡は小高い山の上にある。そこへ行くには九十九折(つづれおり)の道を登って行くのだが、さすがに健脚を誇る僕も気がついたら息が荒くなっていた。重たいカバンを持っていたからだが、その時ふと、重たい甲冑に身を包み、刀を差し、弓矢を背負って関へと向った古(いにしえ)の兵士たちのことを思った。重たいとかきついとか言ってはいられない。その関を襲い、支配下に置かなければ、自分たちの生活も、家族も仕事もあり得ないのだから。ああそうだ。自分は今、奥州の側から関を目指しているのだ。さっきまで自分は南から来た人間だなどと思っていたが、気づいたら奥州軍と共に歩いていたのだった。
500メートルを歩くのがこんなに進まなかったこともない。なかなか関の跡に辿り着かない。暑い陽射しの下、だんだん汗をかいてきた。やがて国民宿舎のようなものが見えてきて、関の跡に近づいたことが知れた。と、その時、心地よい一陣の風が吹き、辺りに咲いている桜の花びらを散らすのだった。桜吹雪。その美しい光景にしばし心奪われ立ちつくす。


久堅(ひさかた)の ひかりのどけき 春の日に
しづ心なく 花のちるらむ
     ―紀友則(きのとものり)

高校時代に覚えた『百人一首』のそんな歌がふと心に浮かぶ。きっと紀友則が歌ったのはこんな光景だったのだろうか。いや、今自分が目にし、心に感じていることのためにこそこの歌は書かれたように思える。そしてそんな体験は日本人なら誰もがきっとどこかでしているに違いない。そんな誰もがする経験を見事に表現しているからこそ、この歌は共感を呼び、1000年という時を越えて歌い継がれているのだろう。日本人って素晴らしいな、日本人に生れてよかったな、と思う。

 

関跡の門の脇に源義家の像がある(左)――門を潜った道に沿って歌碑が並んでいるのが見える(右)

そうこうしているうちにとうとう勿来の関跡に辿り着く。関を思わせる門が設(しつら)えてあって、傍らには馬に乗った源義家の銅像がある。この門を潜ってしばらく行くと「勿来関趾」と記された標(しるべ)が立っているが、これは新字体で記されているところからもわかる通りそんなに古いものではない。先にも書いたが、元々「勿来の関」というものは実際には存在しない。北には蝦夷という恐ろしい人たちが住んでいる。そんな人たちにこちらには来てほしくない。そんな願いをこめた北の国との境を古の人たちはイメージしていた。そう、そのこちらには来ないでほしい――来るな、それが「勿来」なのである。従って、それはどこか特定の場所を意味していたわけではない。が、いつの頃からかこの菊多の柵が勿来の関と同一視されるようになったようである。

 

「勿来関趾」の標(左)と関を越えて戦が起こらぬことを祈念したという社(右)


そういうわけで、ここには歴史的な価値のあるものはそんなに残っていないように思われる。強いて言えば、奥州と大和と、それぞれが境を守って平安であるようにと願って造られた小さな崩れかけた二つの社だけが僕の目を引いた。あとは――ここの一番の見物はそのイメージとしての「勿来の関」を歌った有名な歌人たちの歌碑である。これが門を潜ってすぐに現われる義家のものと斎藤茂吉のものを始め、18も並んでいるのである。

義家のものは

吹く風を 勿来の関と 思へども
道もせに散る 山桜かな

というもので、正に今日のような桜吹雪の舞う日に相応しい。それから、小野小町のものもあって、

みるめ刈る 
海女(あま)の往来(ゆきき)の 湊路(みなとじ)に
勿来の関を われこえなくに

というのである。果たして本当に小町の歌かどうかは疑わしいものの、成程太平洋の見えるこの場所で海と山(関)とを両方歌い込んだところがご当地ソングとしての魅力なのかもしれない。そう言えば小町の出自というのも明らかではなく、秋田県の雄勝町が小町生誕の地として有名だが、ここ福島県にある小野町もまた小町誕生の地を名乗っている。小野小町がこの近くの生まれであれば、ここで勿来の関の歌を詠んだとしても不思議ではない。

 

源義家(左)と小野小町(右)の歌碑

他にも和泉式部や松尾芭蕉のものなどあって、まぁ実にいろんな時代の歌人たちがこの関をテーマに歌ったものだと改めて思う。

暫く辺りの景色に目を楽しませる。先にも書いたが、丁度桜が散りかけ、鮮やかな新緑の葉が光り始める頃で、山はその変わり行く彩りに大変おもしろいのだ。そんな風にしてしばらくブラブラすると、もう見るべきものは見たとここを後にして、道路を渡った所にある「弓弭(ゆはず)の清水」を見に行く。これもまた源義家にまつわるものだ。曰く、義家公が喉が渇いて難儀していた時に、弓の端で地面を掘るとそこから清水が湧いて出た、というのである。僕が見た時は暑さのためだろうか、水は湧いておらず、ただ澱んでいるだけであったが、こんな言い伝えがあるのも弓にかけては彼は神様的な存在だったからであろう。父頼義と共に安倍貞任らを討った前九年の役のことを記す『陸奥話記』において義家は、馬に乗って疾走するその姿はあたかも雷や風のようであり、その馬上から射る矢は外れることがなく、斃れない敵はいない。正に神のようだと、奥州の人々は恐れをなして「八幡太郎」と呼んだ、と書かれている。こうして彼は武の神様となり、その子孫には5人掛りでないと張れないような弓を使う為朝や、頼朝、義仲、義経といった源氏の英雄たちが現われ、そして八幡様は源氏の守護神となっていくのである。

弓弭(ゆはず)の清水

さて、山を降りると駅へと戻り、コンサート会場のあるいわき駅へと向う。このコンサートでいだきしんさんはどんな音を出すのだろうとワクワクする。第一音からこの大地に封印されたものが解かれていくのを感じる。地が響き、海が鳴るようなピアノの音に、僕の身体の奥深く、生命の中心で何かが動き出す――。

東北のことはよくわからない――。僕は常にそう感じていた。一緒に活動している人で東北出身の女性の人がいたが、彼女とはどうしても感覚が合わず、お互いいつもムカつくことがあるのだった。頭でいくら言い聞かせてみても、どうしようもない隔たりを感じていた。それは東北と九州、男と女という、ある意味で対極的な世界に生きているからかもしれなかった。ある時、僕はどうしても我慢できないことがあって感じていることを彼女に告げた。彼女からも激しい反応が来た。僕はまたそれに激した。何故こんなにもこだわるのかと、どうして軽く流すことができないのかと自分に問うてみると、それはどうしても自分のことをわかってもらいたいし、自分も相手のことをわかりたいという気持ちがそこにあったのだった。わかり合って、活動を共にしていきたいというのが本音だったのだ。そして、全てを表現し切った時、互いに相手のことを認めることができるようになり、それまでよりずっと近い存在になっていた。

北と南の境。男と女の境。政治の、宗教の境――。ああ、そんな境なんか全部なくなってしまえばいい。わからないから、恐いからと境を作って互いを隔ててしまうのでなく、わからないからこそ互いにわかり合うようになった時どれだけより広くて自由な世界が開けてくるであろうに!

やがて、いだきしんさんの弾くピアノの音は、さっき見た桜吹雪を思い出させる美しさだった。そう、自分の心の中に桜の花が咲いているような。そう、誰でも、どんな状況でも、桜の花のように美しく生きていくことができるのだ。最後の一音のあまりに美しく、あまりにやさしい響きに思わず涙が零れる。

 

コンサート終了後、帰りの電車の車窓からの日没(左)と勿来の海(右)

 

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もう一人の遠藤さんと会う機会があったのは、それからひと月程経った時のことだ。「出雲さん、元気?」と問う彼女に、僕は「うーん、あんまりね。」と答えていた。

「でしょう。」
「何か、いろいろうまく行ってなくて――。仕事できないし、役に立てないし――。」
「あー、それそれ。」

と、思わず弱音を吐いてしまった僕にたしなめるように彼女は言った。そんな、役に立たないだとかわざわざダメにするようなこと言ってるから元気出なくなるんですよ。あたしね、出雲さんが元気そうに立ってる姿見るだけで自分も元気になるんですよ。だから、そんな――。

彼女の目に光るものを見て、僕の胸も熱くなった。人ってどこでどんな風に人に見られているかわからない。自分でうまく行ってるとか行ってないとか思っていることとは別に、きっと一生懸命生きている時に生命は輝き、周りの人に希望を与え、元気を与えることができるのだろう。どんな時でも自分なんか、と傲慢にも諦めてしまってはいけない。人間、一人で生きているのではない。

生きよう。僕は思った。この遠藤さんにしても、初めに書いたもう一人の遠藤さんにしても、そして僕の周りにいて事あるごとに僕を支えてくれている人たちのためにも。これからの人生、きっと挫けそうになることは次々に起こるだろう。それでも絶対に諦めずに生きよう。

福島に縁のある二人の遠藤さんと、そしていつも僕と共にいてくれる全ての人に感謝して、この小編を捧げたい。


―了―


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